2009年11月20日金曜日

オリンピック招致へのこだわり 2009年11月20日

10年以上も先の2020年開催予定のオリンピック開催候補都市にはやばやと名乗りを上げる都市がでてきた。今度は先ごろ落選した東京都だけではなく、広島・長崎も新たに加わるという。今後はさらに増えるかもしれない。何故、これだけオリンピック招致にこだわるのだろう。率直に疑問である。
もちろん、いくつかのまことしやかな理由は誰しも1つや2つは掲げることはできよう。しかし、いつもこうした宣言に対して違和感を覚えるのは、そこに何らの必然性が感じられないことだ。広島・長崎はオリンピックをとおして「世界平和」を訴えるのだと言う。で、何故オリンピックで平和、とくに核に絡む平和への訴求なのだろう。オリンピックはこれまでもスポーツをとおして政治・思想を超えて競おうとの精神で進められてきた。もちろんその精神を完全に体現しきっていないのは、モスクワオリンピックへの不参加などにも表れているが。
広島・長崎に限らず、東京都にもつうじるが、敢えてその主張をスポーツの祭典であるオリンピックに絡ませようというセンスが理解しがたい。オリンピックには、明らかに都市の整備促進とある意味で近代文明促進化効果がある。日本も東京オリンピックを契機に、また札幌冬季オリンピックを契機に都市基盤が高度に整備され、近代化を図ることができた。北京もそうだし、2016年開催予定のブラジルも現在の経済基盤をより堅固なものにしつつ、先進国家への参加のための基盤づくりを果すことであろう。
世界を見渡すと、オリンピック招致をきっかけとして経済・文化の高度化を果したい諸国がまだまだたくさんある。鎖国・敗戦から世界経済を牽引するまでになった日本が、再びオリンピックを開催することで、そうした世界の国々の近代化のチャンスを10年近く奪うことになる。そうした配慮が今回の東京都の開催国招致宣言の中にあっただろうか。敗因はもっぱら、投票権を持つ国をうまく取り込めなかった下手さにあるような言い方もあるが、他国はそのようには見ていないだろう。何故、日本だけが財力にあかせて、二度もわれわれのチャンスを奪うのか、という浅ましさへの嘲りもあるであろう。
金を掛けないオリンピックを実現し、東京の環境を改善するのだ。こんな主張がオリンピックの精神のどこと触れあっているのか。かつて開催したときに整備した施設を活用し、オリンピック招致をきっかけに世論を動かし、新しい都市整備を進め、弱体化しつつある日本の経済的牽引車である東京を強化したい。言っているのはそういうことなのだ。いわば独りよがりと言えよう。では北京オリンピックはそうではないのか。そうではない。国体は社会主義で経済は資本主義の中国がオリンピックを開催することにより、好むと好まざるとを問わず、着実に欧化することになる。それが結果として、または、図らずも民主化に転べば、世界的な平和の駒がまた一つ増えるわけだから、グローバルな世界となった今、平和プロセスの形成の面からも世界が期待するところであろう。旧ソ連がペレストロイカなどにより弱体化した国体を立て直そうとした政策が、幸か不幸か社会主義を崩壊させた。中国も12億人に国民を食べさせるためには、必然的に資本主義の導入が必要と理解して市場開放・市場参加を進めている。しかし、一部の上層部を除いては、資本主義に内在するメカニズムにより民主化の方向に転がっていくことまでは理解が行き届いていないであろう。いずれにしても、オリンピックにはこうした効果が期待されているのであって、日本の経済再生や世界平和訴求のために役立てようというものではない。今回、オリンピック招致国の闘いに敗れた原因を識者の意見にみると、オリンピックの本来の意義に照らして論ずるものは少ない。ところで、オバマ米大統領がシカゴに対する応援が形だけに終わったことに大統領の力のなさを言う意見も見られるが、かの戦略王国米国だからこそよくわきまえた行動だと思った。
では、広島・長崎は核のない世界平和を訴求できないのか。また、東京都は環境により都市づくりを世界にアピールできないのか。そうではない。オリンピックではなくとも、世界の諸国を東京などに招待し、東京発の世界大会を仕組めばよいではないか。数百億円もかける余力があるのなら。そうしたことを自力でできたときに、世界の賞賛を得られるのではないか。

2009年11月18日水曜日

公開事業仕分けに思う 20091118

わが国の政治で初の公開事業仕分け。案の定、マスコミ、識者の反応は辛口で、かつ表面的である。曰く、稚拙であり1時間ぐらいで判断ができるはずがない、既に決まっていたんだ、財務省のお先棒担ぎさなどなど。
これらの批判は仕分けの「仕方」についての評価であり、仕分けの「本質」への評価にはほど遠い。
何故今仕分けなのか?答えはそれほど複雑なものではないだろう。
国民的観点から言えば、40円ぐらいしか毎年財布に入ってこないのに、100円もの買い物をしようとしているからだ、不要なもの買わないと言うこと。しかも、付けで。付けは出世払いで済むなら、笑って済ませられるが、出世は当面隣国中国がすることになるので、日本は当面「ひら」のままだし、ひょっとしたら窓際で給料も半額近くなるかも知れない。にも関わらず、家族はそれぞれにあれが必要だ、これが欲しいと口々に訴える。こうした場合、家族の誰かが「少しは我慢しなさい!」と言うのが家族(国家)たるものだろう。その判断を家族会議を開いてやっているのだ。当然のこと、「Aちゃんは今回はお預けだな。」と言われれば、それを欲しいと要望する兄弟は日々新しい買い物への憧れを考えているので、死にものぐるいで反発するだろう。そして、「なんであたしのだけ。何もわかっちゃいないくせに!!」と叫び、悪くすればぐれるかも知れない。言ってみれば、これが現下のマスコミ的反応だ。
つまり、財布の中身や財布を管理するのは自分の役目ではないので、「本質」を評価できないのだ。事業仕分作業は、引っ越しや大掃除に似ていて、捨てようか取っておこうか迷う時に、一々じっくり考えたり読んでいたのでは、仕事はさっぱりはかどらない。後悔するかも知れないな、と思いながら、不要不急の視点でどんどん判断するのが仕分けだろう。その時の判断基準は、「無駄」が主とならざるを得ない。確かに、基礎科学者が憂慮するように、今基礎科学の研究費を削ったら、数年後はその分野の力は落ちるのは多少は分かる。しかし、その憂慮をも捨てざるを得ないような日本の台所事情であるという緊急性を理解してくれ、というのが仕分担当の切々とした心情であろう。
小泉元首相が牽引した社会の旧態壊しは、日本の国家としてのダイナミズムが弱体化していることへの警鐘であったのだろう。しかし、想像以上に弱った身体への鞭は、心を矯正することなく、様々なトラウマを作りだした。心が蝕まれても、まだ身体は栄養を欲して、自ら借金をしていきながらえさせようとしているのが現状の日本社会であろう。今回の仕分けは、病人の身体から、要らない「管」を外す作業だ。一歩間違えて、メインの管をはずせば日本という身体は息絶えてしまうかもしれない。
かつて英国が栄華の後の社会的なリセッション状態に陥り、英国病とまで言われたが、小さな政府を目指し、なすべき事を細かく評価する社会価値を敷衍させたことにより、なんとか破綻は免れている。
日本もそれを見習っての自民党壊しや自己責任社会、数々の民営化施策であったのだろう。しかし、「心」が伴っていないということが、船が進む方向を次々と変えざるを得なくなっている。
政権奪取を果した民主党もやはり日本人の集まりであった。毎月1億円ものハンコも領収書も要らない機密費の所在がわかったにも関わらず、一切それを公開しないと言い張るのは、国民から頂いたお金は、自由に使わせもらうよ、との宣言にほかならない。こうしたことを平気でできる価値観があるうちは、政治も変わらないだろうし、真の民主主義の完成からも遠のく。勝てば官軍的な意識だけが国の価値観だと、アングロサクソンの知的体力の勝った国々には今後も追いつかないし、4000年の歴史を生き抜いてきた中国にも及ぶところがない。ただ、日本人の誰も好きこのんで現状を受け容れているのではない。どうしようもない、何をしろというのだ、どうあがけと言うのだ、教えて欲しい。というのが、大方の本音であろう。経済にしても外交にしても、内政にしても、家族、会社等々。グローバル社会となってしまった以上、いまさら後戻りや北朝鮮のように鎖国をするわけにも行かないので、国民全員がしっかり考え、日々判断していくしかない。考えるための方法論さえ、この国では共通の財産になっていないが、識字率も高く、器用と言われる民族なのだから、国民がよい意味で協力・連帯し合い、何としてでも地球民として生き残りたいものである。

2009年10月26日月曜日

資本主義を制するのは中国だ 20091026

 リーマンショック以降、急速に資本主義を修正すべき議論がみられる(「資本主義の将来」(東大・朝日新聞共同開催、2009年10月23日開催)。修正の方向は、グローバルな金融恐慌を引きおこさない仕組みを資本主義の枠組みに組み入れること。そのアイデアの一つに、国連やG20などに市場のお目付役と柔らかい世界レベルの介入権限を与えようとするものがある。つまり、資本主義の基本原理である自由な競争は活かしながら、ある閾値を飛び越えそうになったら、世界総出でこれを食い止めようというもの。
しかし、より理想的には、今回のアメリカ発の雪崩が他国に及ぶ前に、雪崩は自国内で押しとどめる方策を持つことであろう。つまり、資本主義国において節度ある市場・金融政策を展開し、グローバルな影響は及ぼさないということだ。よく言われるように「倫理観」をもって資本主義活動をするなら、そうしたことも可能かも知れない。しかし、資本主義の基本原理である価格をバロメータとする競争には、倫理観は無力であり、それを持ち込んだ瞬間に経済競争に負けることを意味する。
 ところで、旧ソ連を始めとする共産主義は崩壊し、その原因の一つに計画経済が情報社会に対応できなかったことが言われている。しかし、過度な資本主義を修正する方向に、経済の計画性は一つの方向としてあり得る。そう考えると、資本主義+計画性=理想的な資本主義の構図が浮かび上がる。
この場合、歴史的に資本主義を採用してきたアメリカやヨーロッパ諸国では、計画経済を持ち込もうとすることに大いにアレルギーを起こすであろう。日本でさえ、計画経済の語は社会的に受容されにくい。
ところが、現在、社会主義国でありながら、経済は資本主義をとっている中国は破竹の成長を続けており、ここにヒントがありそうだ。つまり、中国は来年にも成長率が10%を超えようとの勢いで成長しているが、バブル様相を呈すると政府の介入が入る。政府の介入は絶対の国なので、政府の描く方向に実体経済を誘うことが可能となる。仮にスローダウンしても、再び資本主義の原理に基づいて競争を進めると、経済は闊達し始める。これこそ理想の修正資本主義の実現ではなかろうか。このようにして、将来予測どおり、中国は近い将来、GNP世界1になるであろう。
ここで見えてくることは、かつて計画経済をとっていた国が経済のメカニズムの一部に資本主義を取り入れる方が、市場のコントロールをうまくできる可能性をもつということである。
では、ロシアも可能か?それは難しいような気がする。外形的には中国と同じ政治経済体制であるが、即座に資本主義の部分を取り込む気概がロシアには見えない。ロシアでは、計画経済そのものを国民が望んでいるようであり、競争ベースの資本主義は肌合いが悪いようである。
他の社会主義国も中国のような可能性があり、資本主義から出発し、市場の制御に手を焼いている国よりも今後うまくやっていく可能性を秘めている。
 悪の枢軸国などと西側から呼ばれた共産主義ではあったが、目指すところは人々の生活の安寧なのだから、柔軟性をもって対応すれば結果的に勝者となり、世界に平和のモデルをもたらす可能性も秘める。

2009年10月19日月曜日

土建国家から○×国家へ  20091019

今回の政権交代のメルクマールは前原大臣の土建国家壊しにあるかもしれない。
八ツ場ダム建設工事中止の精神は、監督官庁である国土交通省の平成22年度予算要求に端的に表れている。他省庁の予算要求も含めて一覧すると、土建国家の構造を変えますとの宣言メニュー表に見えてくる。
土建産業に国家予算が付かなければ、民間の土建需要だけでは、雇用にしても産業波及効果にしても大きな期待はできない。
にわかに顔面蒼白の土建関係者だが、国の産業構造を即時に変えるにはこれぐらいの荒療治が必要なのかも知れない。変えたくなくても変わらざるを得ない金融分野では既にリーマンショックのような外的環境変化により、経験済みである。
金融にしろ、土建にしろ、企業はこの環境変化に即応しなければ、あるいは体力不足で即応できなければ、やがて産業の舞台からやがて降りなければならないだろう。
そうなると、一時的かもしれないが、目に見えてGNPは確実に低減するであろう。さらに政策的に何らの対策も打たなければ、そこから他の産業の経済低迷をも引き起こし、不況の連鎖が起こることも考えられる。
 その程度の考えには誰が考えても及ぶのだから、国はそうならないように、万全の対応策を検討していることだろう。
 さて、その対応策だが、土建国家の卒業が余儀なくされるのであれば、それに替わる別な国家像を形成する必要があり、別の産業振興に力を入れることが求められる。そうすると何年後かには、日本は○×国家になったね、と人々の口をついて出てくるようになるだろう。だが、果たして、その○×に何が入るのか。
これについて、現政権から明確な政策メッセージが出ているとは思えない。民主党政権だから、まさか、「福祉」国家でもあるまい。土建産業から卒業した人々が即座に福祉産業に入学してご飯を食べていけるほどに、福祉産業の仕掛けは成熟してはいない。入学しても直ぐにドロップアウトのおそれがある。
 他方、産業政策の転換により、関連する一国の多くの事柄が変化する。例えば、大学の講座名も変わる。これまでも土木工学は開発工学、基盤工学、環境工学などとカメレオンのように学部学科名を変えている。勿論、カリキュラムの内容はさほど変化が無いとは思うが、時代に翻弄されているようにも見える。しかし、どんなに姿を変えても安心・安定できない状況にありそうだ。土木関係の知識が社会にとって不要だと言うわけではない。中国を始めとする中進国ではこれからは花形になる学問かも知れない。既に下火になった学問の一つには原子力関係がある。下火になったが、今後需要が高まると、炎が大きくなるかと言うとそんなに単純な話ではない。下火になるということは、学究の場に留まらず、関連する人的な資源も波及的に減少することなので、生きた知識を継承する人材が減少すると言うことになる。知の空洞化とも言えるだろう。
これから益々減少が余儀なくされようとしている土建はどうか。
わが国の土建産業は、これまで開国から欧化を目指して驀進するため、国土づくりを一手に引き受けてきた。欧米の社会資本の水準に追いつくように国家政策目標に向けて展開してきた。しかし、身の回りを見回すと概ね社会インフラは整備され、それを使う人の数も徐々に減少し始めている。つまり、既に市場は飽和し、また新規工事より改良・補修工事が主体となり、益々事業展開をする場が少なくなってきているのである。この現状に鑑み本来国がやるべきことは、死に体を活かすためにダム工事を発注することではなく、需要の減少に見あった産業再編の誘導である。例えば、運輸産業では、規制緩和の政策誘導手法でタクシー業界の構造変化を促した。構造変化しきれたかどうかは疑問のあるところだが、まさにこのように政策を打つべきが土建業界の現状なのである。
例えば、蓄積してきた技術ノウハウを他で活用すべきとの判断に立つなら、アジアの市場に出ていけるようにすべきであろう。身の回りに仕事が無く海外まで行きたくないという意向が強ければ、他の産業に移っていけるように職業訓練を促すべきであろう。また、産業界に適正なマーケットサイズを示してやるのも、自主退場を促す点では有効であろう。いずれにしても、こうしたことを国民に知らしめないで乱暴に政策転換をするのでは、空気が読めないKY政府といわれても仕方がない。ムードもさることながら、自ら世界の経済中進国に格を下げて行うことにもなりかねない。
のちのち、この政策転換がわが国の産業政策の適切なメルクマールとなるように心掛けてほしいものである。

2009年9月1日火曜日

わが国のビジョン

 半世紀にわたり衆議院の第1党与党として君臨してきた自民党は、8月30日の選挙を経て一夜にして野党となり下がった。しかし、これにより戦後連合国アメリカから強制的に与えられた民主主義は、ようやく次のステップに踏み出すことができるかもしれない。ほぼ専制国家だった国が、西欧諸国におくれて民主化したが、国民に心の準備があったわけでもなかったため、戦後しばらくは怪しげな民主主義国家として歩んできた。先行して大正デモクラシーなる民主主義の萌芽はあったのだが、この時代の著書にあらわれる民主主義への思いは、何となく偏りがある印象を醸し出している。それもそのはず、民主主義が生まれたフランスやイギリスの精神とは少なからず趣旨を異にしているからであろう。
しかし、民主主義の形態に正解があるわけではない。日本版と言われようと、何と言われようと、民意が政治に反映され国民生活が運営されるのであれば、世界に胸を張ることができる。今回の民主党圧勝により、二大政党化は幻であったとか、首をすげ替えても基本は同じとか喧しく揶揄される。が、そうした外形的なことは民主主義の本質を著しく曲げるものではない。民主主義の本質は、民意による国の運営であり、即ち納得度の高い国民生活の実現である。この実現は、考え方と実践がきちんとできていれば可能となる。
 今回の選挙報道での強い指摘は、両党とも国民にビジョンを示していないと言うことである。2009年1月にアメリカ合衆国大統領に就任したオバマ氏は、就任演説で国民にアメリカが進むべき道を明確に示した。この就任演説は他国民でさえも感動と鼓舞を与えるものであり、きわめてよく練られたものだった。わが国では首相の就任演説でこれだけのビジョンを描いて見せたことが、この数代の首相就任演説であっただろうか。
 なぜ、わが国では首相を始めとして、政党が国の進むべき道を明確に示せないのだろうか。
それは、そのようなビジョンを描く力が総じて無いことによるのだと思う。そんなことは無い、日本人は世界でも学力が高く、世界的に活躍している優秀な人々も多い、などとの反論もあろう。しかし、ビジョンとは思想であり、構成力である。その力が相対的に劣っていることの例証もまた多いなか、個人芸の高さを引き合いに出しても説得力は無い。かつて「所得倍増計画」なるビジョンがあったが、これは時の趨勢を目の当たりにして、政治の願望を述べた程度のことである。所得を倍にすると政府が保証できるわけがない。所得は経営資源からの切り出しであり、経営者が倍の売り上げをしたからといって、相似的に職員の給与が倍にはならないのは当然の理。しかし、高度経済成長の波を国民全体が肌で感じているときに、そのムードを体現したキャッチコピーとしては上出来である。今回の選挙も「政権交代」とジャストミートのワーディングが国民のもやもやした心を体現し、投票行動に結びつけた。
今の日本において、確かなるビジョンを描きようが無いという面もあろう。しかし、そうだから描けないと言うのであれば、優秀な行政マンに政治を任せていれば、国政は回っていくという姿勢と同じになる。かといって、できもしないビジョンを描くのも国としての知見の低さを露呈してしまう。例えば、今、マニフェストとして所得倍増を掲げても、日本の経済運営さえできない政治家は一歩を踏み出すことさえできない。そもそも所得倍増を国民が望んでもいないが。定額給付金などはそのたぐいだろう。これは経済学者がクルーグマン教授が言うように、日本は流動性トラップにはまっているなどと考え、呼び水となるように定額給付金をばらまくよう首相に示唆したのかもしれない。というか、首相が勘違いしたのかもしれない。
 では、日本の政党は国の進むべき方向を見いだせないのだろか?そんなことは無い。もっと真剣に考えればいいだけのことだ。日本語は論理的でないから、議論をしていてもかみ合わないとか、日本人は偉くなるととにかく物事を単純化したがる傾向が強い、など米国などに比べ見劣りするところがあるのも事実だが、頑張れば可能であろう。役所も国民も理論的でなかったり、文字を沢山読むのが苦手であったり、議論をすると直ぐに熱くなり破壊的になる傾向にはあるが、それを特性と捉え、明快な言葉でビジョンを描けばよい。ビジョンはこの国が抱えている問題を明快に解決する印象をもつものでなければ、打ち出す意味が無い。
例えば、現在わが国では、若年層が職に就けない社会現象が蔓延し、この国のイメージを暗くしている。この問題を解決するために、「若者の全てが正社員になれるようにする」といったビジョンを構成する政策の柱を掲げたら、国民はどう感じるだろう。これは所得倍増と同じ根を持つカラ約束の部類であると感じるだろう。何故か。そこには具体的な展開の道筋が見えないこともあるが、まず、困った人を政府がまとめて救済するという姿勢に違和感を覚えるだろう。そして、その財源の手当の不透明さと。さらには、個人には就きたい職業が異なること、そして受け容れる企業にとっては、それによる業績悪化を政府が保証するのかしないのかの不透明さがあることなど、など。
アメリカには建国の精神があり、政府が打ち出す政策はその精神に照らして国民が判断しているようだ。日本の場合、照らすべき価値観や精神は明文化されていないが、社会風土として受け容れられない政策は拒絶される。努力もせずにお金を手に入れることをこの国ではよしとしない。人の褌で相撲を取ることをよしとしない。国民の怒りはそうした生活価値観からでてきている。打ち出される政策は、これらのチェックをしているのだろうか。
 センスが悪いとは前述の政策のようなものを指すのだろう。こういう政策を見て、とても賢い人が考えたとは思えないし、誰が考えてもこうはならないよな、という愚かな印象しか沸かない。このような政策を打ち出すと、その政党は愚か者の集まりのように感じられ、何をやってもこの体たらくと類推が働くようになり、かなりの悪印象を持たれてしまう。それをやってしまったのが自民党だったのだろう。
 では、「明日の社会を担う若者が安心して働けるよう、労働法の見直し、受け入れ企業の拡大、職業教育訓練の充実を国民の協力を得ながら図っていく」などと、詳細化された場合はどうか。何でも縮めればよいという風潮では、大切な要素を切り捨てて誤解を与えることが多々ある。そういう点では、まだ方向性が示せていると言えよう。前述のキャッチコピーももっと丁寧に表現すればビジョンの骨格となるかもしれない。要は国に暗雲たれ込めている若者の就職の改善を、こことここをきちんとやるよ、と言うことを明確に示せば、日本人だけでなく他の諸国にも理解・納得して、受け容れてもらえるだろう。
 民主党の主張する1000円高速はどうだろう。誰もが指摘するように京都議定書をまとめた国としてセンスのなさを感じ取る。1000円高速にしても、CO2の排出量は全体ではこれこれこういう理由で増えないとか、増えるのは事実だが景気低迷をそのままにしておくとCO2を今後減らすのにもっと投資コストがかかるとか、そのような説明を示さないと国内外が納得できない。もし、政治家がそうしたことを理解できずに政策として掲げているとしたら、この国は民主主義以前の問題を抱えていることにならないだろうか。
数学では応用問題が不得手であると言われる国民だが、応用とはまさしくそこに書かれていないルールを思い出し、問題を多面的に吟味する力に他ならない。日本の教育はコンピュータに例えるとCPUの性能の高さばかりを競う傾向にあるが、ディスクの中身も充実させたり、クロックが多少遅くても、深みのある見方を提示できる教育が必要だろう。そのためには耐えて訓練することの重要さを再び国民の生活に呼び戻すことも国造りとしては重要であろう。
以上

2009年8月7日金曜日

宇沢弘文著 「自動車の社会的費用」に思う 080930

2章分をまるまる使って、経済学者の視点からわが国の自動車・道路政策を批判しているが、この著書には、大きく2つの点で誤謬を感じる。
一つは、歩道もない道路を生み出してるのは、心ない設計者と行政官だと決めつけていること。二つは、ドライバーが心なくその道路を走って交通事故禍を引き起こしていることが、経済的にフリーライドだと決めつけていること。
批判に晒しているものの背後を見ていない。見ることにより、論点ががらっと変わる。そういう点では論の展開にミスを犯していると言える。

誤謬の1点目は、宇沢氏が道路設計、道路行政に明るい人に聞けば直ぐに自分の指摘が間違いだとわかることである。まず、設計者は良心を持っていたとしても、職業倫理上、委託者に従うのが前提であり、従わなければ委託業務を納めることができない。よって、指摘対象の論外。行政官は、道路整備事業を発注する主体だから罪がありそうだ。しかし、道路構造令で定めた道路規格(これを絶対視するのも大いに問題があるが)に従わせようとすると、日本の道路自体が道路規格より狭いので、規格に不足する分の用地が必要となり、確実に沿道を延長方向にわたって広域の用地買収が発生する。この用地買収にかかる費用や立ち退きにかかる期間を考慮すると、現道整備とせざるを得ないのが実際である。よって、行政官も致命的な責任があるわけではない。ただし、この道路構造令や道路法を決めた国民に責はあるとは言える。
経済学者なら現実の施策はこのあたりの比較考量により執られることを理解しているはず。知らないのなら勉強不足だし、故意であれば悪意を感じる。
まず、比較している欧州都市はすべて拡幅して整備をしているかを調べるべき。欧州は馬車の文化をもっており、自動車は馬車サイズ。現道整備で進めて問題はない。アメリカは最初から都市を造ったので、欧州に学び自動車サイズで道路を設計。マンハッタンが良例。日本でも更地に新設する道路は道路構造令の規格どおりに整備されている。一緒くたにして議論しているところによく考えずに結論を急いでいることが露呈している。社会学系の経済学者と標榜するなら、その程度の基礎調査には時間を惜しまないことが最低限。

誤謬の2点目は、経済学者らしからぬ視点と思う。経済学では個人は自己の効用を最大化するように行動するとの前提をおいている。道路があり、自動車があれば、その効用を最大化するように行動するのが個人であろう。青天井で最大化されると社会厚生が低下するので、交通ルールがある。そのペナルティの範囲で行動がなされる。これは基本。
よって、宇沢氏が指摘する個人がまき散らしている公害は、交通ルールの範囲内で行動して起こるものであり、それでも問題があるとするなら、それを許している社会があるから発現しているのであり、要は内生化が不十分なだけ。
社会的費用を内生化するのは政策であり、国民の意志決定である。これも巡り巡って国民に責がある。公害対策の内生化方策にはコースの定理なども含め様々議論がある。しかし、内生化とは公害の発生責任が明確な範囲を同定(政策的に)して法令等に取り込めば良いだけのことだから、例えば、自動車事故を起こしたら即、免停で一生自動車を運転できないとか、事故が多い道路は封鎖するとか、自動車を保有しない法律をつくるなどなんでもある。
しかし、経済学者でなくても分かるのだろうが、研究対象である現実経済を支えているのは、物の交易であるのだから、現実に自動車運用を停めることはできない。経済の停止、生活の質の低下、生命の停止までを意味する。そうすると、「しかたなく皆でしのぎながらやっている」状況を取り出して、外部不経済とか社会的費用とか言っても天に唾をするようなもの。経済学者なら、どのように内生化するのが、現実経済への悪影響を抑えられるかを考え提案するべき。門外漢はこまる。せめて自動車の幅を縮めろとの発想はでてこないだろうか。

社会主義の劣位性 080828 

 貧しき人々、地下室の手記、怒りの葡萄を続けて読んで想記したのだが、前者ロシアの作品と後者アメリカの作品の大きな違いは、個人が社会システムに参加する余地があるか否かの違いにあると感じた。すなわち、社会主義には社会システムを壊す自由が全くないのだ。
自由主義には貧富の差が生じ、貧しい人々は資本主義に押しつぶされ、生活の自由が剥奪されているように写る。しかし、努力やチャンスにより生活レベルを向上させることは全く不可能ではない。かたや社会主義はまるでカースト制度のように個人を峻別する。帝政ロシアの時代はその後のソ連の社会主義とは異なるのだが、この時代にすでに萌芽がみられる。ロシア人(ナロード)の絶望的な叫びは、自己の力ではどうにもし難い、社会システムの堅牢さによる。
片や、初期のアメリカの貧困には、資本主義の大波に飲み込まれ、行き先を閉ざされながらも一縷の望みが失せない人々がそこにいる。また、今時のオバマ旋風のように、社会階層であった黒人階層からも大統領が生まれる希望が残されている。

ロシアにおける見えない手の恐怖とやるせなさ、失望は、結局人間をだめにする。かつて中世以前の人間は、進歩の概念なく人生を生きたといわれるが、まさにそのようなものだ。
神を失った以降の、ものを考える人類は、嘘でもいいから明日は今日より進歩していたいと切望する。近日考察した、N+1が無い人間社会は、必ず疲弊し、人から希望を奪いさるものとなろう。
 よって、かつてから薄々感じていたことだが、社会主義は個人の創意や工夫を一切評価しない社会システムであったからこそ崩壊したのだとのことを、別な確度から補強するものである。
ロシア人とは、もしアメリカのように自由主義にすると、多分、とんでもないことをやらかす人民なのだろう。だから、社会主義の名をかりて、人民が人民自らルールを敷いたのであろう。そう考える方が、合点がいく。

以上

経済学考3  081002 

宇沢氏の論文に触発。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしている。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因をtの関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者である。人の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学はなにもなし得ないとの烙印を押されるだけだ。それなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本といい、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないというのはまたさき以外の何者でもない。
前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者と後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分に対するフィードバックが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある期で上記の前者であったものが、やがて後者になるが、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要なのに無いものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えよう。
まだまだだな、経済学は。結局、データがとれないので屁理屈で終わっているのだろ。統計と一体化したSNAのようなシステムでないと、経済学の発達はこれ以上見込めない。
大体、学問の前提を語ると笑われるといったフリーメイソン的なムードが既におかしい。隠していると何も生まれないよ。

経済学考3  081002 

宇沢氏の論文に触発された。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしているという。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因を時間の関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。それとも純粋技術的に動学的な扱いは難しいということを素直に言っているだけなのか。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、
富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。少なくとも市場原理だけでは富の再配分は見えざる手では行われない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者と思われる。人間の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学では何もできないではないかと政策学として落第の烙印を押されるだけだ。その種のことなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本と主張しながら、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないと指摘するのは主張に矛盾を孕んでいる。
低所得である前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者とフリーライドする後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実質は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分のフィードバックに工夫を持たせることが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある時期に上記の前者にあったものが、やがて後者になるとしても、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要であるにも係わらず備わっていないものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えるのではないか。

経済学考2 081001 

宇沢弘文氏曰く、新古典経済学派は、アメリカがやってきた経済政策を正当化するために生まれたものであり、生みの親シカゴ学派だけでなくアメリカの経済学者全てに共通する価値観によって形成されているという。つまり、競争を社会の是とすることや、個人の利益の最大化などの価値観を取り扱える学問として、新古典派経済学を構築したのである。日本の経済学者が追いかけている経済学とは、アメリカの社会を説明する道具であり、なんらグローバルなものではないのだ。厚生経済と名のつくものでさえ、せいぜいパレート最適にあればよいというのだから、公平性などの概念は入っていない。どういうことかというと、アメリカでは個人の努力でのし上がることを否定していないので、努力にみあった富を個人が得ることがあるいみで社会の厚生性を高めると考えている。だから、ビルゲイツ一人が何兆円もの資産を獲得しても、アメリカ経済はパレート最適にあるのだから、よいとの方便に持ち込んでいる。日本が考える万民の公平性は、今の新古典派経済学には入る余地がないのである。パレート最適そのもの価値観が公平性とは無縁である。あるいみ多数決的な価値であろう。
しかし、その価値観だけで経済を動かしていくと、極度の貧富の差が生じる。そこをアメリカでは、寄付や税金等で補償している。ビルゲイツも多聞に漏れずやっている。日本は、そうした社会システムの全体をまねせずに、経済学理論だけをまねしようとするので、社会の経済状況を説明できないし、また、学問の果実が社会に還元されない。何をやっているのかも分からない。端的なのは、現在の経済学の大家と言われる宇沢氏自体が、著書に見られるように、日本経済の仕組みがてんで分かっていないことが証左である。
宇沢氏が言うように、アメリカではこの学問が無いと社会を説明できないので、敢えて、経済学の基本条件の見直しをしていないという。宇沢氏はだれも根本の条件を研究していないことを指摘するが、敢えて日本人の経済学者がすべきだとも言わない。経済学の本質が分かった人は言えないのだ。この学問の前提はひどいと。だから、新古典派経済学の非人間的な前提を敢えて明らかにしないのだ。いやすることができないのだろう。学理として昇華させるほどの力を持った者が経済学をやらないだけでなく、経済学を勉強し始め理解してから気づいてもこと既に遅しとなるのであろう。
この数日気になっているのだが、外部性も市場で扱うことはある種の変換によって可能だろうし、そのような処理をすればよいだけと思っていた。宇沢氏もそのような言い方をしている。たとえ気合いを入れて、日本版新古典派経済学を構築しようと取り組んでも、大枠は現在の経済学のフレームを使うことになるだろう。せいぜい、消費関数、需要関数、経済主体等をいじる程度であろう。公平性や外部性を取り込めないなど言わずに、修正した経済学を構築すればいいのだ。その程度の学力は日本にだってあるだろう。一人の学者だけで頑張るのも良いが、先鋭の数学者や社会学者でタスクフォースを組めば、1~2年でできるだろう。経済学者はオブザーバでよいだろう。

経済学考1 080904 

ゲームの理論などは人間の意志決定パターンを数量化したもので、その観察対象は文学作品にもある。例えば怒りの葡萄などによく現われている。工業化により急速に変化するアメリカ社会。良きに付け悪しきにつけ、アメリカは近代工業化とともに国造りがなされた。
英国でうまれた内燃機関をフォードに代表される企業活動により、無からの国づくりに実用化・大量生産の域にまで達成させた立役者がアメリカである。コニーアイランドから発して、NYのグリッドに到達した都市づくりは、まさに城を持たない開拓地ならではのこと。
この過程において、アメリカ人は世界のどの国の人々よりも資本・労働・土地の重要性を認識し、その魔力を身をもって体験したことか。怒りの葡萄の中には、米国が生んだ近代経済学の実例が詰まっている。また、ケインズ以降のナッシュ均衡に至るまでも素材として豊富だ。彼らの生き様を体現するものが現在わが国が参考とした経済学である。
その意味では、わが国ではどんなに時を重ねても、現在のアメリカが生み出した経済学は生まれなかったであろう。もちろん、日本型の経済学の生まれる余地はあり得るが。
その日本の経済学ははっきり言ってプアだ。
日本の経済学がプアである原因は、日本人が米国流の経済学を体感していないことによる。
ある識者の論調をみると、学派の系譜や米国で言われていることの追従でしかない。その本質に迫れていないし、迫れない。これは、UntiTrust議論とまったく同じである。
ゲームの理論で例と示される囚人のジレンマなどは米国の人々の日常茶飯事の行動様式であり、彼らにとっては何らの不合理性のあることではない。
哲学がフランスの高校生にとってさほど難解でないことのようなものだ。
日本人は米国の経済学をうまく利用しようとしているだけである。経済学の魂を理解できないため、自分流に作り替えることさえできない。そのエンジンになっているものは、わが国の商慣行などに照すと、はなはだおかしい物もあろう。
一番良いのは、日本版の経済学理論を作ってしまうことだ。多くはパラメータ調整ですむのかもしれない。しかし、経済学者は米国のまねごとではなく、本腰をいれてわが国なりの経済メカニズムを解明しないと、決してまともなロジック構成はできない。結果として、米国の借り物に政府も企業も併せようとして、常に不都合さを感じながら、また、さしたる効果も見いだせずに徒労してしまう。
例えば、現在の経済モデルでは、家計、企業、政府をおいて、各セクターは契約でことを進めていくものとしているが、わが国ではさほどの契約の徹底はなされていない。混合経済である。そうした中での最適化は、パレート性であらわされるものか、よく見極める必要がある。経済理論のベースとなるこの国の商慣習、価値観を取り込まねば、まともなツールは構築し得ない。

2009年8月5日水曜日

裁判員の迷いに思う

裁判員制度の運用第一号が8月4日から始まった。日本でも、1928年から1943年まで陪審員制度が運用されていたそうだから、この種の制度運用は史上初ではない。しかし陪審制度が運用されていたわが国の社会状況、国民心理は、現在とは大いに異なっていると思う。そうした点では、本格的な民主主義社会史上では初体験であろう。
裁判員制度が今年5月にスタートするまでに、新聞では国民の偽らざる心境を紹介していた。それらに共通することは、自分に人を裁く権利があるのか、どういう量刑が妥当なのか分からないといった不安が示されていたことである。私はこうした世の人の考えに違和感を覚える。一国民の立場では、人を裁く権利は無いであろうし、素人では量刑の目安など分かろうはずがない。制度の元になる法律で求めているのは、国民に人を裁く権利ではなく「義務」を与えたことである。司法は国の重要な柱となる制度として、これまで専門教育を修めた者だけに付託してきたが、その専門的判断に国民が疑問を投げかけたことなどもきっかけとして、この度の裁判員制度が生まれた。本来は、国民が国民を裁くのは何ら不合理性が無い。民主主義の代表格である米国などでは積極的にそのように運用している。平均的な日本人が感じる、罪を犯した人を裁くなど私にはできない、と言う感覚は、家の中はきれいにしているが公共空間には平気でゴミを捨てる感覚にも似ている。単純化すると、社会は複数の人から成り立っていて、そこに不穏分子が出現すれば、社会の安寧のために皆でその不穏分子の処遇を決めなければならないというのは極めて明白なことであろう。裁判員への不安を口にする人は、不穏分子の処遇は社会の構成員の私でなくて、他の人がやってくれればよい、ということと同義だ。処遇の具体的な運用策は様々な形があろうが、原理原則は単純化したようなものと考えられる。その意識を根底に持っている必要があるし、そうして初めて罪を犯した人からも罪を犯された被害者からも逃げることなく正しい判断ができよう。さらに、日々、社会における正しい(平和を乱さない)行為とは何であるかを考察する習慣がつき、犯罪の少ない社会をつくりあげることに寄与できるというものだ。極めて国民皆の利益の向上にかなっている。
4日と5日の新聞記事には、裁判員を経験した人の意見があった。そこには、加害者を実際に見た最初の印象と状況証拠の陳述を聞くうちに加害者に対する印象が異なってきたが、印象(心証)がこんなに変わって良いものだろうか、ということを述べている。これらは正に裁判とはこのようなものというのを肌身で感じているので、よいことだと思った。これこそ弁護士の腕の見せ所であり、反対尋問などにより、双方自己正当性正を主張しあい、相手の非を攻撃することを見聞きしながら判決に向けた心証を形成していけばよい。しかし、私が現在の法制度の運用に疑問をもつのは、例えば今回の事件では、「殺意のあるやなしや」が大いなる論点と言われることについてである。
人が殺されるまでには様々な理由や偶然や意志があることは論をまたない。それは過程である。一方、生きていた人が命を奪われる事実としての結果が厳然としてある。その命が奪われることへの正当性?を今の法制度では裏付けようとしているように強く感じる。どのような理由や過程があろうとも、何事もなければ生きながらえた命を偶然であろうと故意であろうと殺めてしまった事実については、その引き金をひいた人を裁かない訳にはいかない。偶然であるので、その人には責任がないので、裁くことができない、という法制度にこそひずみがある。法制度は解釈の体系であるので、現時点ではたまたまそうした解釈をする人知が無いだけであるというのが正しい理解だろう。しかし、人は法解釈で示される判決文を遙かに超えた判断を瞬時にできる能力を持つ。故に、そうした判決には大いに違和感をもつ。どのような理由があろうとも人間一人を殺めたその人に罰を与えることに、人は違和感を覚えない。これこそが最も合理的な判断であろう。法が社会の安寧を図るためにあるなら、こうした運用こそが正しいと言えよう。日本の裁判が加害者の庇護に強く、被害者の保護に弱いのは、社会正義が図られていないことの証左である。それを是正しようとして裁判員制度が生まれたのだが、従来の間違った法技術をそのまま運用するのなら、正しい裁きは望み得ない。
最も基本となる思想は、命は命でしか贖えないとことである。命は最低限等価性が成り立つ。高名な大臣が名もない若者に殺害されても、両者は命の重みが同一であると言う点で平等である。その貴い命が殺められたのにもかかわらず、死刑や無期懲役が言及さえもされない判決もある。何故そうなるのか。それはこうした基本思想が法制度の底流にないことによる。日本の法制度がどのような明快な思想で構成されているかを端的に言える人はいないし、書籍も無い。こうした制度では多義解釈が起こるのが明白であり、裁判官によっても正反対の判決がままあるので、勢い判例に解答を求める。しかし、そんなことを繰り返していては国民経済に悪影響があるだけでなく、国民の正義感にも大いに悪い影響を与えるので、最終判断をする仕組みが要る。それが最高裁判決だ。最高裁判決が真理であり、地方裁判決が誤謬であるはずはないが、どこかで「決着」をつける必要のために最高裁がある。
命の等価性の観点に加え、憲法が保障する思想・表現の自由も考え合わせる必要がある。巷にはかなり危険な思想や表現があふれているが、民主主義社会を育むためには思想や表現には公共の福祉の限度を超えない範囲で自由を保障している。だから、私を含む国民は、頭の中ではどんなことでも考えられるし、ウェブなどにも公共の福祉の限度内では自由に表現ができる。「殺意」を抱いたかどうかが争点である、といったことは、こうしたわが国の憲法の観点から見ても、それを争点にするには不整合がある。殺意などは当然持っていると考えても良く、また加害者が殺意を否認したら、それも正しいということになる。殺意があろうとなかろうと、刃物で刺したら死んでしまったのなら、殺した事実があるので、それを問うことであろう。勿論、たまたま草刈りにでも使おうとして持っていた鎌に隣人があたってどこかが切れて死んでしまったのなら、情状酌量の余地はあろう。しかし、今回の事件のように刃物をもって往来を歩く行為自体が不法であるのだから、殺意を持とうが持つまいがそこを論点にすること自体が法側を迷宮に入らせしむる理論と考えられる。裁判員制度が今後しばらく運用される中で、国民が今の法制度の欠陥に気づき、法担当者が真剣に議論し改善するなら、わが国には未来があるような気がする。私も裁判員となる日を心待ちにしたい。

2009年7月31日金曜日

未成熟な土建業

これまでわが国の根幹産業であった土建業。経済成長の鈍化により、往事の勢いは無い。もちろん、経済的な理由だけではない。環境重視型の施工が求められ、コスト的に耐えられなくなったこともある。しかし、何よりも問題であるのは、コスト面での透明性・分かりやすさの限りなき低さであろう。
欧米ではコスト面の課題を「マネジメント」によって克服しようと、CM(コンストラクション・マネジメント)などの仕組みを生み出しコスト面の透明化を図っている。では欧米の真似が好きなわが国がなぜ同じ事ができていないのか。それは、土建業がひとえに産業のソフトな部分に未成熟さを内包しているからである。この未成熟さは、日本式の商習慣であるなどとも自他、評することがある。つまり、世界ルールに則れないお金のやりとりがあると言うことだ。これ故にコスト面の透明性は図れないと。
しかし、それは本当だろうか。
一面の真理はあろう。わが国だけに限らず、人の社会は利益を囲い込もうと個人、法人、政府などやっきになっている。アジア社会ではわが国以上に平然と金品の授受が行われている。が、欧米でもそんなに遠くない時代では同じであった。英国では昨今またぞろ議員の私利私欲が高まっているようだ。では何故欧米はそうしたことが時代と共に少なくなってきているのか。経済は結局のところゼロサムゲームであることが欧米人には理解されている。これは彼らがキリスト的平等観をもっていることとつながる。私利私欲で金儲けをしても、結局何らかのかたちで自分も不利益を被ることになることを経験ではなく社会・民族の知恵として知っているからであろう。そうであるなら、むしろ徹底して透明化の中で決められたルールに則って勝負をしたほうが精神的にもよいし、宗教的な価値観にも適う。
しかし、わが国の土建業の未成熟さはこうした社会価値的な側面だけによらない。家を建てた経験がある人なら分かるだろうが、どうしても納得のいかない金額を見積の中に発見するだろう。公共工事や民間土木工事でも同じだ。中途半端にコストの詳細化が進んでいるので、その部分はつまびらかにせざるを得ない。しかし、上述のような商習慣などの要因により総額的に勘定が合わないことを知っているので、それに合わせようとする結果、おかしな数字がでてくる。例えば、「一般管理費」などの費目がとんでも無く高いことがある。この数字について見積者は説明できない。できないが総額でなんとか理解してくださいと言ってしまう。依頼者も総額での要求をしてくる。こうしたことが、結局わが国の土建業のコスト面の透明化を阻害している。では何故適切に表示できないのか。それは、自分たちの仕事の適正な価格・付値をする努力を放棄していることに原因がある。コスト面の透明性が高い自動車産業などと比べるとその違いは歴然としている。
自動車産業界ができて、なぜ土建業界はできないのか。それは事業の要素の多さにも起因しよう。土建施設を構築するまでには自動車を凌駕する検討事項がある。自動車業界は比較的狭い産業構造の中で閉じているので、自動車本体を製造するコストはかなり明確に把握できている。土建業界は単純な労務管理業から、土建業界の商社であるスーパーゼネコンまでと組織形態も多岐に渡るほか、専門業態も職域に対応して存在する。こうした形態が元請け・下請けの構造を複雑にし、商習慣とやらの絡みもあり適切な契約形態を築きにくくしている。さらに、土建業では自然環境との絡みにおいて不確実なリスクが多々存在し、結果として事業リスクとなっている。こうしたリスクヘッジのために、勢い経験則に基づく見積をせざるを得ないという事情もある。
 しかし、これらの事情についての見解は、かなり土建業界寄りであろう。リスクが存在し、その発生が定常的であればコストに見込めばよい。発生が不定期なら、保険商品を開発すればよい。つまり、他の業界がやっているように業界として努力すればできることである。海の向こうの彼の地はそのようにしているのだから。
そうした努力を放棄した結果、いまや土建業界はじり貧の憂き目をみている。適切な利益の基準作りを怠ってきたために、儲けてもそれが過大な儲けかどうかさえ見当がつかないといったことだっただろう。儲けられるときはなりふり構わず儲け、渋られると過小の取り分で堪え忍ぶ。そうした非科学的態度が今の状況を導いてしまった。
 土建業界は今後成熟するのだろうか。それは外圧次第だと思う。現時点でわが国社会が貯め込んでいる社会資産を吐き出させようと外圧が働き始めると、日本独自の商習慣などとは言っていられなくなる。とくに中国がわが国の土建業界に進出する日には、彼らの商習慣で攻めてくるのではなく、世界ルールで攻めてくるだろう。つまり、中国が世界に打って出る日には、彼らは世界ルールに順応した戦い方をすると考えられる。そうした状況になれば、わが国の土建業界も成熟せざるを得なくなる。そんな風に、頼りない自発性の無い変わり方を成熟するとは言わない。島国のガラパゴス土建業界に明日は無いのか。

2009年7月14日火曜日

気づき

人が自覚的に認識することを「気づき」と呼ぶ。認識の対象は何でもいいのだが、自覚があることが重要なポイントである。例えば、ある空間に一人でいるとき、誰かが入ってくれば音や姿や気配で気づく。そんなときには、知り合いであれば顔を上げて、声の一つも掛けるだろう。しかし、初対面であったり嫌いな相手であれば、気づいても気づかないフリをする。ここでは、この状態をテーマとする。
この場合、主体が気づく&客体も気づく、主体が気づかない&客体も気づかない・・と4つの状態がある。険悪な仲であれば、お互ともに気づかれたくないのだが、その保証は無い。しかし、人は希望的に状況を理解する傾向がある。「あの人には気づかれなかった。こっちを見ていなかったから。」または、上記の4つの可能性を楯に、「私はあの人がいることは全く気づかなかった。他に目を奪われていたから。」とも、よく主張する。
まさに可能性だけの問題なので、気づいていたかもしれないしそうでないかも知れない。しかし、通常人は気づいていなかったと主張することの方が多いのではないだろうか。そのことが不誠実さを感得させ社会に不信感を蔓延させているようにも感じる。
いくつかの例を見てみると、例えば電車のシルバーシートに座っている際には、高齢者が目の前にたっても気づいていないように振る舞う。実際には多くの人は気づいている。というのも、シルバーシートに着席する時点で自分が座る資格がなければ、警戒心が働く。警戒心があるにもかかわらず、前に人が立っているかどうかも気づかない人はいない。勿論、泥酔者や爆睡者、無神経者など平均値から大きくずれている人は除いて議論している。
別の例だが、政治家が献金の実態を掌握していない、気づかなかったというのも、実際には気づいているのに不正直な発言をしているだけだ。気づかないとの可能性すらないと言って良いだろう。一般的には、よく、人は多忙なので気づかなかったという言い訳をすることがあるが、物事に気づかないほどに多忙になれば、そもそも仕事などこなせる精神状態にはなくなる。また、気づかないような社員に仕事を依頼するはずがない。政治献金が社会的問題になっているにもかかわらず、そのことに気を向けない政治家がいるはずがない。気が向かなくなったら、政治家家業を続けていくだけの精神状態にはない。政治献金が多いと言っても年間多くたって1000件もあるだろうか。それを職員が処理するとしたら、半分専従になるぐらいの処理量となる。そんなことを毎日やっている職員の報告を聞かないあるいは聞けない政治家などいるはずがない。つまり、政治家が自分に対する政治献金の状況を掌握していないなどということは正に政治家らしいウソである。仮に件数が少なくても、「ウチは献金は大丈夫か」と聞かない政治家はいない。
 このように人は気づかないと言うとき、多くは不正直に言っている経験があるので、他人が気づかないといった際には相手の言をほとんど信用していない。つまり疑っている。この不信感が相互にあるために、社会が殺伐となる。では、その逆の命題として、人が気づいたときに正直に行動するならば、社会が穏やかになるのだろうか。その答えは、そんな社会は無いので正しいとも間違いとも言えないが、人間的な感覚から言えば、答えは否であろう。結局のところは、極端を排して中庸であることが安定的な社会を実現するということになりそうだ。そのためには、人は日頃から数回に1回は正直になることであろう。その日の終わりに、今日は何回正直であったかを懺悔するようになれば、中庸が実現し社会は穏やかになるであろう。

2009年7月9日木曜日

パソコンの致命的な課題

今年から本格的にブレークした低価格パソコン。凌ぎを削って低価格を実現しているメーカーには頭が下がる。でも、安くなっても軽くなってもパソコンには課題がある。それは、一部の製品を除き、基本的に立ち上がりが遅いという致命的な課題。僅かに3分程度かも知れないが、こまめに電源を落す者にとってはレジュームからの立ち上がりでも気に障る。テレビのように瞬時に使用状態にならないものか。
 パソコンの立ち上がりが遅くて何となくパソコンを利用することが煩わしく、利用を控えている人も多いだろう。別に利用者を拡大させたいので立ち上がりを早くして欲しいと言っているのではない。第二の産業革命と言われるパソコンは自動車よりももっと人間に親和性があってほしい。それによって、人間活動の支援が図られ、結果として資源利用の効率化にも繋がる可能性が高い。
 では、どうしたら素早く立ち上げることができるのだろうか。技術的には可能だと思われる。小型のパソコンで実現しているようなOSをメモリに保持する形式などがありそうだ。立ち上げでパソコンが行っていることは、OSをメモリに読み込んでいること。それを毎回毎回繰り返している。勿論、毎回同じ内容で読み込みをしないだろう。だとしても、立ち上がった環境の9割は共通すると思われる。だとすると、9割はメインメモリ内に常駐、つまり最初からICに焼き込んでおけばよい。通常は僅か1割の違いを修正すればよい。このように言うと、それでは特定の会社のOSに依存するのではないか、とかOSは進化の途上だからどんどんパッチをあてて書き換えなければいけないので不向き、といった指摘があろう。しかし、いつかは安定するであろうOSを待つより、現状で一定程度安定的に動くOSをインメモリにすればよい。もっと言うと、現状の構成に安定的なOSをIC化したボードを追加することがよい。コストの問題はパソコンメーカーが解決すれば良くて、瞬時に立ち上がるパソコンが欲しいと思うユーザは多少コストが高くても購入するであろう。BIOSの書き換えに似た方法やフラッシュメモリに取り込むという手もあり、少しの工夫で可能と思われる。
 即時立ち上げの意義は、人間の意思決定のサポートをする道具がパソコンであることにもよる。意思決定には通常、スピードが要求される。そこにパソコンがあるとき、思いついた瞬間に、あるいは即時の対応に使えなければありがたみがない。他方、即時の対応に使えるツールとして、携帯電話がある。だから、携帯電話は人の行動様式に適うものとして国や民族を超えて利用されている。携帯電話とパソコン、両者は帯たすきの関係にある。もちろんどちらかだけに特化させるのは技術や可能性の広がりを減じるので、相補関係にあってよい。しかし歴史的にみると、開発者はその中間のPDAなどをつくってきた。きっと、帯たすきを超えた何かを目指していたのであろう。例えば、ウェアラブルコンピュータのような。そういえば、googleが無料の素早いOSを開発し来年には供給予定という。やはり、革命を起こすのはgoogleか。期待したい。

2009年7月8日水曜日

公共空間でのプライバシー侵害考

 Googleストリートで初めて訪れる地区の街並みを観ようとアクセスした。そこで不思議な光景を目の当たりにした。訪れようとする地番に方向を変えると、急に真っ黒くなるのだ。そうか、これがプライバシー侵害を理由にgoogleに削除を求めた結果なのだと気づいた。結局目的地の様子は分からずじまいだったので、地図を当てになんとか目的地にたどり着いた。用件が済み、帰りがけにプライバシー侵害が心配される建物があるかしばらく見渡してみた。しかし、何の変哲もない日本の街並みであり、人が妬みそうな屋敷があるわけでもなく、拍子抜けした。
 国が違うので何ら比較にはならないが、欧州諸国では道路や建物の前面は公共空間と位置づけられているそうだ。そのため自分の家だからといって、条例などで定められている材料や色以外のしつらえで家の顔を飾ることはできないそうだ。勝手にやると条例違反でもあり、撤去ややり直しをさせられるとのこと。かくして、欧州諸国の家並みは統一され、美的である。それを世界各国の人々が観て賞賛する。もちろん日本人も例外なく。しかし、ひとたび日本に帰ると、我が家は自分のものだから、自分が良ければ他人にとやかく言われる筋合いはないと決め込む。ついでにgoogleにも文句を言って、googleストリートから削除してもらう。これで安心。
でも何が安心なのか分からない。隣近所と統一の取れないデザインの家を建て、何に満足しているのか分からない。彼の地のようにみんなが合意できる基準が無いのだから、一人一人が他人に合わせることをためらうのも分からないではない。しかし、その一方で国ではビジットジャパンなどのキャンペーンを張り、諸外国から日本の街並みを見に来て貰うべく美しい景観づくりをしようとの政策を進めているようだ。しかし、このような現状で諸外国の人々が感心し、わざわざ見物に来るような建物や都市景観を造り得るのだろうか?答えは無理。無理だと思うとか考えるではなく、現実的に無理。仮に名前だけの景観法ではなく、景観統一のための強制を伴う法律案を作ったとしても、国民に得心をえて受け容れられることは無い。何故なら、この根本原因はくだんのプライバシー侵害意識にあるから。日本流のプライバシー保護を主張しているうちは、いわゆるme-ismから抜け出すことはない。自分だけが良ければいいという感覚と、自分だけが犠牲的に欲望を抑えても誰も賞賛しないし損をするだけだというさもしい感覚、そんなことをして何の特になるのかという損得勘定、そんなことに効果があることを考えたこともなかったという無知主義。まあ、どれをとっても街並みをユニバーサルな美しさをもったものとしていくことは現在の国民価値、政治体制では無理であろう。江戸期の整然とした町人長屋を良い景観だという人もいるが、欧州をはじめとして整然とした景観は個人が造りだしたものではなく、時の為政者の強制力にほかならない。良くも悪くも民主主義をとっている日本において、また、ますます統一性が希薄となるであろう地方分権制度下においては、街並みは統一感を欠く方向に向かうであろう事が容易に推察される。一つの可能性としては、かくも奇怪な景観は日本にしかないというような、他の国では実現しえない街並みとなることかもしれない。
 自国民の総意なら、それでもよいとは思う。しかし、プライバシー侵害意識が合理的な観点から是正されるなら、もっとユニバーサルな国民になり得るとも思う。

2009年6月29日月曜日

日本の政治・行政の問題点

現下、巷には先の見えない失業問題、政治のドタバタ劇、北朝鮮問題等々、枚挙にいとまがない社会問題が山積している。勿論、どこの国だって、五十歩百歩だろうし、なんと言っても社会問題の認識はもっぱら新聞やニュースをとおして、つまり、その国のジャーナリストの処理がほどこされた情報に基づいて形成されるので、ひょっとしたら描かれている報道と実態は異なるのかも知れない。
でも、でも、やっぱり今の日本の対応はかなり問題があると思う。何が問題かといって、知恵がほとんど発揮されていないこと。物事の理解と決断が近視眼的であること。国民性だから仕方がないところだが、昨今ほとほといやになってくる。
 失業問題ひとつを取っても、米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況だから、自動車メーカーが人減らしをするのも仕方がないか、的な政治・行政対応しかやっていない。民間企業の質が悪くなっているのは確かだとして、彼らの行ないをただしたり、セーフティネットを張ったりと激変緩和をするのが政治の役割。いまのシステムだと、入力がそのまま出てくるような、全く浅はかな政治・行政システムとなっている。経済成長を支えるには消費税が云々、と言っているが、そもそも金の使い方が分からないのだから、いくら消費税を上げたところで、社会問題が抜本的に解決するはずもない。
 政治家・役人は古くから洋行し先進諸国の知恵を吸収し、真似をしてわが国に適用してきた。しかし、それから100年以上たっても、相変わらず米国や欧州の追随をしている現実がある。社会体制の異なる中国ならまだしも、曲がりなりにも資本主義の日本が、自分で考えることもせず、他国のまねごとをしているのが、正に知恵のないところを露呈している。
 経済学一つをとってもそうだが、現在の経済学は基本的には「米国の」経済学であり、「日本の」経済学ではない。米国が米国社会や世界向けに、自国が儲かるように工夫した学理であるので、それをそのまま日本にもってきて適合するはずがない。サブプライムローンの発端だって、米国が造り上げた金融工学に多く依っている。米国流の経済学を盲信し、ただただ追随し、日本国内にも大きな経済的痛手を被らせているのが日本の経済学の現状だ。(だからといって、経済学の本質から外れた幸福論てきなまやかしの理論を提唱することを望んでいるのではない)。いまや米国抜きの世界経済の実現は不可能ではあるが、少なくとも国内の経済施策はわが国独自の経済理論で展開するべきだ。米国流の経済学であっても、需要供給曲線などは古典的なアイデアだし、どこの国でも同じだ、と言う見方もあろう。しかし、経済モデルの諸パラメータの操作だけではなじまない経済モデルもあるはずだ。日本の商習慣を冷徹な先端的米国流経済理論に乗らないから、日本社会を変えるべきだと言う主張も、一面正しいが、全てがそうでもあるまい。
 かつて、エリートとは、外国語(古くはドイツ語、今英語)に精通していて、外国の書物を訳して国内に刊行できるものを指したようだ。現在も若干はあるだろうが、10数年前までは、外国語の書籍を翻訳すれば大学の教授になれたという。このように、基本が外国を向いている。外国(他人)の構築した理論をトレースすることだけに汲々とせず、何故、日本に軸足を置いて、しっかり自分たちの頭で考えないのだろう。
今の政治や行政の無策を見ていると、利口な人がいろいろと考えているのだろうが、足を引っ張り合っているので、いい案が仲々出てこないのだ、ということだろうと考える人もいよう。しかし、実は、現実はそうではなく、自分たちで考えようとしても、考えられないのだと思う。人のことは言えないが。
テレビや新聞に識者が述べる意見のうち、果たしてどれだけ全体を見渡して、いまや日本はどの道を進むべきかという基本認識をもっている人がいるだろう。(なお、ここでは、政治経済的な思考について言っているのであり、物理化学等々の優れた日本の知恵については対象としていない。)
潜在的な能力のある人は、是非とも日本独自の政治経済思考の質を高め、この難局を乗り越えていく力強い日本に導いていって欲しい。

2009年6月23日火曜日

中心市街地活性化考

中心市街地の活性化が善であるとは、おそらく国民の誰もが否定しないことだろう。
それにも係わらず、中心市街地から人が減り続け、閑散としているのは何故だろう。
活性化が善だと言っている人は中心市街地に自ら出かけているのか?多分そうでは無いだろう。多くの人が中心市街地は活性化するのが良いと思い、ことあるごとに中心市街地に足を運んでいるのなら、人影が少ないはずは無い。
つまり、人々は中心市街地に行かないのだ。ならば、中心市街地の活性化など必要ないのでは?
たぶん必要が無いのだろう。必要が無いにも係わらず、官民そろって声高に活性化を叫んでいるのだろう。カラー舗装や公園、アーケードなどの整備に税金を投じているが、そこには人がいない。
もし、人々が中心市街地などは不要だと明言するのなら、こうした無駄な税金は投入されなくなる。中心市街地に投資する数十億円から数百億円の税金をその町に住む高齢者や失業者に割り当てたら、人々の生活はもう少し楽になるかもしれない。
こうしたことを冷静に受け止められる市民や行政や政治家がいないのは何故だろう。実は多くの人々は気づいているのだ。わが町の中心市街地に税金を投資したところで、日常生活に必要な食料品などが安くなる訳でもない。賑わいといっても、中心市街地だけに雇用の場があるのでもないので、平日は中心市街地の商店やわずかな業務施設に働く人たちが行き交うだけである。休日は、郊外のイオンなどのショッピングモールで家族で楽しく便利に買い物をする。または、ネットでショッピングをしたりこのブログなどを読んでいる。だから、中心市街地には人は集まるはずがない。
よく本末転倒な議論として、郊外にSCが立地するのはけしからんとの主張があるが、その主張をしている当の中心市街地の商店街の店主がSCで楽しんで買い物をしている。多くの市民も、「郊外にSCが乱立するなんてホントに良くないわ」といいながら、競争によって安くなった日常品をありがたく購入している。実は、良くないと言っている当の本人は、何が良くないのか分からないというのが本音だと思う。実際、その人に何故郊外SCの立地が良くないのか、思う理由を聞いてみるがよい。多分、中心市街地の商店街が疲弊するからとステレオタイプな回答をするであろう。でも、私はイオンで間に合ってますから、と付け加えることは忘れないと思うけど。
これからの都市計画は、中心市街地が無くても活性化(従来の意味での活性化ではない)する都市づくりが求められるだろうね。

2009年6月22日月曜日

自動車が売れない訳

自動車が売れなくなったと、自動車メーカーが嘆いている。
やれ若者が乗らなくなったからとか、やれガソリンが高いからとか、まことしやかな理由を挙げている。

果たしてそんな理由がもとで自動車が売れなくなったのだろうか?
ところで、今日この頃のTVの自動車のCMを見ると、いまだにデザインや走行性の軽快さや燃費の良さを強調している。自動車が発明されてから100年ほどの歴史の中で、走行性能については十分に技術革新を図ってきたではないか。燃費もまだまだ改善の余地はあるものの、大声で強調するほどの改善がなされているのではない。デザインについても、具現の可能性が限られている範囲内でのバリエーションの域を超えていない。つまり、自動車メーカーは、いまだに自動車は内燃機関の改善に日夜取り組んでいることを主張するのがPRポイントだと考えたり、自動車が相変わらず贅沢品の延長だったり、自己実現のツールだと見なしているふしがあり、かなり昔のコンセプトに陥ったままのようだ。小刻みなモデルチェンジや古めかしい価値観での自動車づくりに、国民はあきあきしているのではないか。それが自動車が売れない本当の原因だと思う。
凡そ、法律で決められた安全機構を備え、法定の車線幅を法定の速度で走るとの制約条件下で生み出される自動車にそんなにバリエーションがあるはずがない。国民が求めているのは、いかに安全に走ったり停まったりできる自動車にしてくれるかということ。素朴に考えると、自動車とは前はある程度見えるが、車側や後部はまったく見えないもので、数百キロもある鉄の塊がわずかなアクセルとハンドルで動き出してしまう危険きわまりの無い物体。車庫入れや縦列といった行為は、教習所で習うものの、通常は慣れで行っているが、一度もヒヤリとしたことが無い人などいないだろう。こうした自動車を安全に動かす基本部分に何らかの工夫が目に見える形で施されてきただろうか。それも大衆車に対して。自動車の運転は緊張感なくしてはできない。こんなストレスが溜まるものに、日々楽しいものが身近にあふれている時代の若者が無理をして乗ると考える方がそもそもおかしい。
では、こうしたことへの対応は、技術的には難しいのだろうか?
ITSが唱道されてから優に10年は経つが、一部の高級車をのぞいてあまた走る自動車に走行の安全に関するITSの機能は搭載されていない。しかし、いくつかの技術は実用域にあるのだから、走行性や燃費ばかりに力をいれていずに、こうした最も基本的な部分の改善を進めれば、自動車は今よりは売れると思う。
そんなことをしたら、コストが高くつき、元も子もないではないかと言う声があろう。しかし、年間の自動車事故の死者は減ったとは言え、決して少ない数ではない。また、化石燃料の埋蔵量も多くは無い。そんな視点に立てば、高くても買える人だけにして、総台数を減らすことも必要ではないか。情報化は益々伸張するであろうから、人の移動需要は相対的に減る。かつてはビジネスのために時間を争って移動したが、いまやビジネスは情報システムで済む。移動をさほど急がないのなら、バスや電車でよいだろう。その方が資源節約にもなる。
これまで自動車産業はわが国だけでなく、他国においても主要産業であった。しかし、従来の価値観のままで自動車をつくり続けていくなら、早晩限界がくるだろう。自動車は既にインフラ化していると理解し、実用機能、安全機能に特化し、パーツも共通化し、スクラップ&ビルトを極力排した製品とするなら、今後も主要な産業として需要されていくことであろう。勿論、今以上に群雄割拠があるだろうが。
このテーマについても、今後、ウォッチしていく。

2009年6月19日金曜日

googleはタマネギの皮をむきはじめている

タマネギを剥くとは、もののたとえだが、タマネギをむいていくと、最後に何も残らない。タマネギとは解き明かすべき謎の塊だとたとえると、謎を解いていき、最後の見つかるだろうと期待する謎の大元はどこにも無いのがタマネギの皮むきの結果。タマネギの皮一枚一枚が謎であるのであって、いわばマトリョーシャみたいなものかも知れない。
で、これがgoogleとどう関係があるかって?

googleが何を目指しているかはっきりとはしないが、googleがやってきたことや、やり始めていることを見ると、人知の全てを可能な限り情報化して検索の対象としてしまおうということ。これは、世界最大のEncyclopediaを構築しているのであって、凡そ人間が認知できる情報が丸ごと入っていると考えられる。そして、その人知が時と空間を超え、googleの賢い検索機能により瞬時にゲットできるのだ。

僅か数年前まで、物事を調べようとすると、結構時間を要したし、調べ上げたという満足感は得られなかった。でも、いまではgoogleでほとんどの情報を調べ上げることができる。
こう言うと、ネットに入れられていない情報は調べられないじゃないかとか、本当にオイシイ情報はネットなんかには無いよとか、活きた情報はネットで得られるはずが無いなどとの素朴な疑問を呈する輩がいる。
パレートの理論ではないが、2割にあたる情報で全体の枢要な傾向や本質が分かれば、人間生活の殆どが充足する。3σ(標準偏差の3倍)もずれたところの極端な意見や情報は聞くに値するが、それが無くても、特段日常生活でこまることが無いし、残りの部分は類推や思考により補完するのでなければ人間の良さが活かせない。もっとも、うんと貴重な発見などは、知的財産として保護もせずにはネットに流せないよね。そんな情報はむしろ流すべきではないだろう。

なんだ、googleのやっていることはとても良いことではないか、何が問題なんだ、という声が聞こえる。

違う観点から見てみる。例えば、人間が成長するに合わせて獲得していくべき情報は年齢に適うかたちで様々あるだろうし、いつかは行ってみたという憧れの場所だったり、世界には自分が見たこともない民族がいるのでは、なんていう憧れを持っている人もいるだろう。でも、一度ググれば、たちどころに答えはみつかっちゃう。つまり、人生の秘密や憧れなんかというタマネギは、googleで剥かれしまうと、後には何も残らない。
そうすると、野を越え、山を越えて探し求める旅なんかは、少し少なくなるかもしれない。わざわざ飛行機に乗って外国に行かなくてもいいやという人も少し増えるかもしれない。もう世の中には秘密なんかないんだ、と落胆する若者もいるかもしれない。

じゃあ、googleがやろうとしていることは、人類にとって良くない事じゃないのか、と声を荒げる人もでてくるだろう。でもね、そうしたこともあるかもしれないけど、上で言ったように、そんなことは僅かなことであって、太宗はこれまで以上に世界が広がるメリットを享受できると思うよ。

これについては、過渡期だし、まだまだウォッチと考察が必要だね。

2009年6月18日木曜日

コンパクトシティとは

コンパクトシティについてのステレオタイプな議論が多い。
CO2削減、資源枯渇といった地球資源がこのままではもうもたないから、省エネ生活をして少しでも地球を延命、人類を延命させようと言うのが目指すゴールである。
そうするとコンパクトシティは、目指すゴールまで遠いこと、遠いこと。削減すべきCO2や枯渇するだろう資源はデジタルに示せるのだから、通常、その数値目標に向かって、これだけ削減しようね、と示していくものだろう。
で、コンパクトシティをするとCO2がどれだけ削減されるのか、はっきりしない。大学なんかがいろいろ計算しているが、コンパクトシティにより10%に満たない程度の削減効果しか予測されていない。当たり前と言えば、当たり前だが。
その削減率をコンパクトシティ構築代金で割ると、1円あたりのCO2削減率も僅かだ。CO2を削減しなければならないことは、人類にとって、背は腹に変えられない的な課題だから、マネータームで云々するのは禁じ手だとしても、何もそこまでやらなくたって、現在を生き抜くための課題だって山積なのに・・、とのぼやきも聞こえる。
それに、脳天気にコンパクトシティと鳥瞰的に言っているが、人はしゃれで居住地を決定しているのではないから、「これこれ、そこに住むと、CO2が増えますよ。移住してください。」なんて言われて、そうですか、それでは地価の高い都心に移り住みましょうか。ところで、我が家は4人家族なんですが、今住んでいる郊外の100㎡と同じ面積の住宅が与えられるんでしょうな。まさか、あなた経済が分かってない??そんなはず、あるわけ無いじゃないですか。庭もありませんし、4階部分の60㎡のマンションですよ。車庫はありません。 的な現実があるのに、コンパクトシティを標榜している国や自治体は、そこまでのツールを示して、コンパクトシティの実現を誘導してはいない。地域づくり、町おこしだなんていって、この数十年、地域一丸となって育ててきた郊外の街が、あなた、そこは限界集落に近い地区ですよ。都心に引っ越してください。なんて、そんな都市政策って、ありますか?つまり、現時点のコンパクトシティ議論は、工学的には意味があるが、社会経済・文化歴史的な観点からは、あまりにも陳腐である、詰めが甘いと感じる。

2009年6月16日火曜日

PDA

いまさらPDAでもないでしょう。と、言われそうだが、PDAを追いかける。
実は、携帯電話でアプリが勝手につくれるのなら不要。auなんだが、auは勝手につくるサービスはしていない。そうすると、やはり、アンドロイドに期待ですか・・。