2009年11月18日水曜日

公開事業仕分けに思う 20091118

わが国の政治で初の公開事業仕分け。案の定、マスコミ、識者の反応は辛口で、かつ表面的である。曰く、稚拙であり1時間ぐらいで判断ができるはずがない、既に決まっていたんだ、財務省のお先棒担ぎさなどなど。
これらの批判は仕分けの「仕方」についての評価であり、仕分けの「本質」への評価にはほど遠い。
何故今仕分けなのか?答えはそれほど複雑なものではないだろう。
国民的観点から言えば、40円ぐらいしか毎年財布に入ってこないのに、100円もの買い物をしようとしているからだ、不要なもの買わないと言うこと。しかも、付けで。付けは出世払いで済むなら、笑って済ませられるが、出世は当面隣国中国がすることになるので、日本は当面「ひら」のままだし、ひょっとしたら窓際で給料も半額近くなるかも知れない。にも関わらず、家族はそれぞれにあれが必要だ、これが欲しいと口々に訴える。こうした場合、家族の誰かが「少しは我慢しなさい!」と言うのが家族(国家)たるものだろう。その判断を家族会議を開いてやっているのだ。当然のこと、「Aちゃんは今回はお預けだな。」と言われれば、それを欲しいと要望する兄弟は日々新しい買い物への憧れを考えているので、死にものぐるいで反発するだろう。そして、「なんであたしのだけ。何もわかっちゃいないくせに!!」と叫び、悪くすればぐれるかも知れない。言ってみれば、これが現下のマスコミ的反応だ。
つまり、財布の中身や財布を管理するのは自分の役目ではないので、「本質」を評価できないのだ。事業仕分作業は、引っ越しや大掃除に似ていて、捨てようか取っておこうか迷う時に、一々じっくり考えたり読んでいたのでは、仕事はさっぱりはかどらない。後悔するかも知れないな、と思いながら、不要不急の視点でどんどん判断するのが仕分けだろう。その時の判断基準は、「無駄」が主とならざるを得ない。確かに、基礎科学者が憂慮するように、今基礎科学の研究費を削ったら、数年後はその分野の力は落ちるのは多少は分かる。しかし、その憂慮をも捨てざるを得ないような日本の台所事情であるという緊急性を理解してくれ、というのが仕分担当の切々とした心情であろう。
小泉元首相が牽引した社会の旧態壊しは、日本の国家としてのダイナミズムが弱体化していることへの警鐘であったのだろう。しかし、想像以上に弱った身体への鞭は、心を矯正することなく、様々なトラウマを作りだした。心が蝕まれても、まだ身体は栄養を欲して、自ら借金をしていきながらえさせようとしているのが現状の日本社会であろう。今回の仕分けは、病人の身体から、要らない「管」を外す作業だ。一歩間違えて、メインの管をはずせば日本という身体は息絶えてしまうかもしれない。
かつて英国が栄華の後の社会的なリセッション状態に陥り、英国病とまで言われたが、小さな政府を目指し、なすべき事を細かく評価する社会価値を敷衍させたことにより、なんとか破綻は免れている。
日本もそれを見習っての自民党壊しや自己責任社会、数々の民営化施策であったのだろう。しかし、「心」が伴っていないということが、船が進む方向を次々と変えざるを得なくなっている。
政権奪取を果した民主党もやはり日本人の集まりであった。毎月1億円ものハンコも領収書も要らない機密費の所在がわかったにも関わらず、一切それを公開しないと言い張るのは、国民から頂いたお金は、自由に使わせもらうよ、との宣言にほかならない。こうしたことを平気でできる価値観があるうちは、政治も変わらないだろうし、真の民主主義の完成からも遠のく。勝てば官軍的な意識だけが国の価値観だと、アングロサクソンの知的体力の勝った国々には今後も追いつかないし、4000年の歴史を生き抜いてきた中国にも及ぶところがない。ただ、日本人の誰も好きこのんで現状を受け容れているのではない。どうしようもない、何をしろというのだ、どうあがけと言うのだ、教えて欲しい。というのが、大方の本音であろう。経済にしても外交にしても、内政にしても、家族、会社等々。グローバル社会となってしまった以上、いまさら後戻りや北朝鮮のように鎖国をするわけにも行かないので、国民全員がしっかり考え、日々判断していくしかない。考えるための方法論さえ、この国では共通の財産になっていないが、識字率も高く、器用と言われる民族なのだから、国民がよい意味で協力・連帯し合い、何としてでも地球民として生き残りたいものである。