2017年5月20日土曜日

法の本質

 西欧などのキリスト教国では、神は絶対であり、人の上に立つ神の最終承認がなければ法さえも機能しないと考えられている。つまり、人が作った法に神の承認がないと、法として意義をもたないと言うのである。
 これは一つの考え方のモデルであるので、それ自体は民族毎に納得が行く方法で捉えればなんらケチをつけるべきものではない。ただ、事の始まりが約4000年前のヘブライのモーゼあたりから始まっているというのは、いささか難がありそうだ。
 人類にちかい生物が地球に出現したのが諸説あるものの約200万年前で、現在の人類が約20万年前から始まっていると言われる。激しい生存競争の中で現在も生き残っている生物は、それなりの生存のための知恵を獲得できたことによる結果だというのは、現在も絶滅している他の生物を見れば、素直に理解ができる。そうすると、約200万年前とまでは言わなくても、少なくとも約20万年前をスタートとして人類種族の歴史を捉えても間違いはないだろう。他の生物に比べ高い知能をもった人類が生き残れたのは、知能にもとづく「他者との関係性」を適切に保つ心の営みの結果であろう。この関係性こそが「神」の本質であり、人と人の関係のルール化なのである。この神がいたからこそ、言葉を持たなくても20万年もの時間の中で滅ぶこと無く生存競争に打ち勝つことができたのである。人類の歴史の約2%の長さしかない約4000年前にヘブライの人々がそのことを初めて言葉で体系的にストーリー化し聖書の形にまとめたということだろう。
 そこまでの20万年の間ではこの関係性を集団に与えたのは、あるときは部族の長であったかもしれない。いずれにしてもその人間集団の知者であったことは間違いない。その知者こそが、その集団で突き抜けるほどの知恵をもつものこそが神と崇められたのかもしれない。だが、現代においてもその事情は変わらないのではないか。わずか4000年前のヘブライのものだけが真の神ということではなく、地球上のそれぞれの種族がその種族の関係性を維持できる知者やそれを文字化した法であって何らの不思議は無い。
 法が「関係」であることは、モンテスキューが「法の精神」において定義付けている。一国の民を方向づける憲法もまた、内国と外国の関係性の宣言文なのである。日本の第9条の戦争法規は、国民に対して日本は他国に戦争をしかけないと宣言しているのである。それにも関わらず、憲法の本質を理解せず、他国と戦争をしないために必要な下位法を制定したり、国として必要な外交努力や必要な国内教育・研究を行っていない。今の9条が言っているのは、私達日本人はかつてのように武力をもって戦争をしません。戦争をしないようにあらゆる努力をします。ということだ。戦争とは他国とおこなうものだから、戦争をしないとは、他国がその気にならないように積極的に働きかけることである。それは他国にODA支援するだけではなく、そもそも戦争を戦争はしてはいけないのだよと教えたり、諭したりすることも含まれているだろう。そうした努力は国民が目に見える形では行われていない。むしろ戦争法をしたくないという国民の民意を無視した政治を展開している。
 この9条に防衛軍などを明示すれば、日本は他国と戦争をすると宣言することになる。他国との関係が戦争という状態を招くかもしれないと国民に宣言することになる。そのための下位法は自衛隊法や共謀罪を問う法として充実を図っている。経験としてもこちらの方が豊富だ。ただ、仮に他国として戦争を始めようとしても、現在の戦争で必要な経験が第二次世界大戦の頃のもので足りるわけではないだろうが。

 法は、神というその民族の知者たちがその時代のその民族の知を集結したものとしてあらわされたものである。憲法を制定した知者は役割を終えれば解散してしまって何ら不都合が無い。やがて新たな神が必要となれば、その民族の最高の知恵をもつものたちが見直せばよい。そしてそれが民族の生き方を律する。つまり、法は民族によって民族に与えられるものであり、民族の神が与えたものとみなせる。
 そう考えると、今の米国は、神の代理と位置づける大統領は、とても米国の知を代表しているとは見えないので、最早、生存競争に打ち勝てない途をたどっているかもしれない。人類の歴史的事実がそれを示唆していよう。対岸の火事では無いのが日本だということも明瞭にわかるのが寂しいこの頃である。

                  完