2016年7月9日土曜日

少しだけ見えてきた人間という生き物 ―欧州の足跡に見た―

 多分に性格的なものだと思うが、子供の頃から「疎外」という概念に興味があり、それを感じる自己の心理と、同時に感じさせしめる他者の心理に近づいて見たいと思い始めたのが18歳の頃だった。強く意識するきっかけは、ドストエフスキーの地下室の手記をはじめ、大学生になって手にした「夜と霧」であろうことは間違いない。ドストエフスキーからは、疎外はロシアの社会構造が生み出すものだということを感得し、夜と霧からはドイツ人の恣意的な意志がなし得たことだと理解するに至った。その後、ドストエフスキーの作品はほとんど読み、そこに通底するのは、「スラブ」というアジアともいわゆるヨーロッパとも異なるロシアに重く横たわっている民族の歴史あり、自らのルーツと信じるヨーロッパとの和合を身を引き裂かんばかりに渇望し、ロシア人こそがヨーロッパを始め世界を統一化しうる民族だとの主張で終わっていることだ。つまり、ロシアはヨーロッパから出ているが、ヨーロッパに疎外されたことが不幸の始まりであり、ヨーロッパに戻るための資質は十分に備わっていから、温かく受け入れて欲しい、それによりロシア人は本当の親と信じるヨーロッパを救いうるのだと主張しているのだ。それは現在のロシアも同じ意識にあるように感じる。
キエフ・ルーシから始まったロシア(「ルーシの国」を意味)は、大雑把にいえば、一度はヨーロッパ人の国として発生したが「タタールの軛」により約240年もの間支配された後、1480年にモスクワ公国のイヴァン3世(ツアーリ)がこの軛から漸く解き放ち、まがりなりにもアジアではない国家として生まれ変わるスタートを創りだしたに見えた。だが、かつてはヨーロッパ人に先祖をもつロシア人も長いモンゴル人の軛にあって、徐々にアジア的なもの考え方を身につけたようだ。その表れが9世紀から19世紀まで約1000年間にわたった農奴制の温存である。この農奴制により、同じ民族であってさえも、人には「格」が備わっており、上の格の人間は下に位置する格の人間を家畜同然に扱ってよいという思考を遺伝子に組み込ませてしまったのかも知れない。これが、西欧をルーツとしながらも西欧とは異なるロシアという国の大いなる特徴であり、その後に人類の歴史に惹き起こした悲劇の原因と言えるかも知れない。ドストエフスキーを始めとして作家がロシア文学に登場させたロシア人は、精神的に極めて倒錯した人間像として描かれている。だが、これらのロシア人は決して創作物ではない。現実のロシア人の中にこそあり、一個のロシア人のなかに多層な人格として現れるのである。ドストエフスキーの登場人物を描写すると、精神分裂病としか思えない人物像として多く描かれているように思える。しかし、彼らは決して誇張されて描写されたのではなく、彼らはロシアの歴史によって創りだされた人物像がそのまま描かれたのであろう。例えていえば、聖人と残酷な殺戮を無慈悲に行い得る人格が一人のロシア人に内在するということである。いわばジキルとハイド氏である。では、何故ロシア人はこうした支離滅裂ともいえる人格者となり得たのか。それこそが疎外というテーマに通じると感じたのであった。
 一つの仮定だが、欧州の縁辺部に降り立った人々はその発祥の当初から強い「劣等感」を抱いてきたのではないか。人類全般に対してではなく、発祥の地である西欧に対してである。ここでは劣等感を疎外感と読み替えてみた。なぜ自分たちは他の欧州主要国のように近代化が果たせないのか。我々ももとは欧州にルーツがある民族ではないか。人は請い求める対象から何らかの形で受容され得ないとき、時として対象へ劣等感を抱き、そしてその劣等感は拒絶する対象に様々な反応を示す。対象に取り入ろうとして自己の優秀性をアピールし、媚び、脅し、無視したりとありとあらゆる媚態に通じる態度を表明する。人間同士の場合は、激高して対象を亡き者にしてしまったり、二度と視界に入らないように自ら永遠にその場を立ち去ることもできる。しかし、国同士の場合は、その地政学的関係性が不変であり、この相対的関係が変わらないかぎりいつまでも劣等感を抱き続けることになる。今日においても、かの地は相変わらず西欧の歓心を買おうとし続けているように見える。劣等感を抱く国は、人間のアナロジーで想定すると強い自己正当化を主張する傾向がある。その心理は、ありのままの自国(西欧ではもっぱら田舎臭い国)のイメージを受け入れたくない、認めたくないというものだろう。マルクス主義により国を変えたいが、その当時は自国は改革以前の遅れた国であり、改革の前さばきとしてまずその田舎臭い社会=農民や自己改革ができない自国民を抹殺したいと希求したのだ。どんなに背伸びしても西欧のようにエレガントになれない、いつも未開の地の人々よろしくドン臭い印象をもつ自国であり続けることに対する苛立ちだったのだろう。実は、中欧のある国もそうであったと思われる。この国は優れた古代人にルーツを発するという科学が高度に発展し始めたその時期に、荒唐無稽な原始的ともいえる演出をするに至ったのもその感情の発露であろう。だが、第二次世界大戦時に主導的であったこの国の指導者は、金髪碧眼の自民族のルーツと思われる人たちを探してこいと命じたが、国内を八方探してみても自国民の中にそれほど見当たらなかったので、多民族から引き立ててきたともといわれる。その国が歴史的な贖罪を背負うと言われる540万人とも言われる数の人々を根絶やしにした根底には、彼らが中欧の自国内でその人たち以上の社会的地位にあったり、金持ちだったことに対するやっかみや劣等感が引き金となったであろうとことは容易に頷ける。中欧の人たちにしてみれば、自らの国を持たないよそ者が自分たちの社会に寄生的に生活し、あたかも自国民と同じように社会的成功を得るさまは、その中欧の人の潔癖的性格にも増して嫌悪感を抱くものだったことも頷ける。亡国の民族が居座っているから、まっとうな自分たちは不遇になると、他者の所為にすることが劣等感をもつ人の特徴でもある。今日、シリアなどからの大量難民を排除したり、自国の黒人やヒスパニックたちを排除しようとするわずかな米国白人ら、そして韓国人にヘイトスピーチを浴びせる僅かな日本人も同じ心理にあるであろう。
劣等感の強い人は、相対的に思考に柔軟性の欠如が見られる側面があると思われる。それは心の弱さとなって現れるが、原因は自己の心の弱さではなく他者の存在の所為であるとする傾向が見られる。このため、劣等感の強い人が積極的に他者を排除しようとするときに往々にして陰湿さや残虐さを伴うのだろう。相手は自分に対して間接的に攻撃していると認識しているから、それを排除するために戦わなければ自分がやられてしまうのだ、正当防衛だと主張がなされる。これ故、前の世界大戦時の二つ国のように、亡国の人々を排除することが社会的に正当な目的となってしまうと、工業化の得意だった人々は、多くの人々を一瞬で抹殺する工場を作り出して膨大な殺戮を機械的に行ったりもした。もし、彼らがあのまま戦争に負けずに亡国の人々を抹殺し続けていたら、次にはその他の諸民族を殲滅し、最終的には欧州の縁辺の国と同様、自国民さえも殺し、最後の最後には軍の内部闘争に至り自己崩壊していたのかもしれない。劣等感を動因とした最終心理形態は、結局、全てのことに満足できない自分を発見し、自己破壊するに至るということかもしれない。
心が強い人は、他者と比べ自己の能力が劣っていよういまいと卑下する度合いは少ないように見える。ある意味で鈍感なのかもしれないが、究極的には「正解」というものが存在しない、あるいは存在させることができない人間社会では、人類の共存という観点からは有用な知恵なのかもしれない。亡国の人、中欧の人、欧州の縁辺の人は、人類の多くがが認めるよう個人としてはとても優れた人材を歴史の中に多く輩出している。特に亡国の人は人類社会の知の発展に大いに貢献しているのは周知の事実である。しかし、そうであっても、彼らをしても、人類社会に平和をもたらすことはできなかったし、これからもできるようには思えない。それは、人間の頭脳で考えて解がでるほど人間社会は容易な複雑さの程度ではないということであろう。ある一人の天才にとっては水も漏らさぬ完璧な世界観を構築できたとしても、現実の人間の社会にはそれに適う個体は限定的にしか存在しない。従って、頭で組み立てたその世界観を現実の人間社会で敷衍しようとすれば、間尺に合わない個体を排除するしかなくなる。それが、縁辺の国や中欧の国やなどの諸国において、知に立ち過ぎ者たちが犯した人類史上の取り返しの付かない大きなミスであった。人間の能力が多様性を持つ以上、常に止揚しながら社会を運営することなくしては、人間社会は成り立っていかない。大量虐殺による特定集団の排除によって、単に不要と思われる集団がいなくなり口が封じられたということにとどまらない。人間は言葉を持つ以上、排除された集団は言葉によって、自らの怨念を社会の歴史に残していく。残された怨念(ルサンチマン)は、世代を継いで語り継がれ、やがて復讐に変わる。その点で、かの国は、各々1000万人以上も抹殺したことにより、数世紀にわたり、抹殺された者たちのルサンチマンから逃れることはできないであろう。
一見、殺した人の数は無関係に思えるが、実は、この数こそがその後のその国の歴史に与える影響の度合いを規定するように思える。大量殺人は、古くから人類の歴史に散見されることであり、今日も起きている。しかし、かの地ほどにはどの国も他民族・自民族を殺してはいない。とくに、中欧の国のようにオートマティックには。
 人間である以上、今後も殺しあいが止むことないであろう。地球が有限性をもち、人が現在のような機構をもつ生物である以上、他者を殺さずに生きていくことは避けられないように思う。もし、避けられる方法が見つかれば、それはそれに越したことはない。しかし、どこから考えを巡らせても、殺し合いは避けられそうにない。身近の家庭、友人、他人から人種に至るまで、都合の悪い他者の排除は人類が滅亡するまで続く。もし続かなくなったら、今の人類ではない別の生命体になる時であろう。モノに絡んで生きていく人類としては、モノの枯渇が不問にならない以上、全ての個人が満足できる日は来ない。モノの枯渇が不問になったとしても、また新たな次の問題を持ち出すのがわれわれ人間という生物の宿命かもしれない。

 欧州の縁辺の国が今後もしばらく病んだ社会であると思われることに言及する。この国が大量殺戮を実施した革命期に成し得た本質的なことは、自国民を含む人々の「希望」や「価値体系」の破壊である。

人という社会的な生き物がまともに生きていこうとするときには、希望や人生の羅針盤となる価値体系が社会に共有されていることが不可欠である。この国の革命では、多くの学者、芸術家、英雄(あの宇宙飛行士も)などが強制収容所に送られ死んでいった。どんな社会であれ、人は他者より優れていたいものだし、そのように努力することが満足感も得られ、生きる希望にもなる。もし、そうではないという社会があれば、およそそこに住む人間という生物は心を病んでまともに生きていけない。できなかったことをできたとき、満足感を人は感じる。他者がそのことを認めれば、励みにもなり、一層努力したくなる。知らなかった知識を吸収できたとき、また、それを確かめられた時に正しく答えられた時に、人は満足を感じる。これらは、人間の社会に共通の価値体系でもある。もちろん、かつてはアフリカなどの原始社会ではそうした価値を認めず、永い古代社会が続いてきたことも事実である。そうだとしても、人は人知れず、蒙が開かれる瞬間にときめきを覚えながら生きてきたのだろう。もしそうでなければ、とうの太古にヒトという種は死滅していただろうし、そもそも種として発生することも無かっただろう。
様々に変化する外界の環境に耐えうるように変革し進化して今日を生きる人類にとって、日々の生活の中で営む進歩性や自己改革性、自己発見性などの価値を根底から否定されたら、人として生きていく上での道標を見失う。まさに彼の地の革命期には、そのことが彼の地に生きていた1000万人以上の人々に降りかかったのである。その記憶は彼の地の人々の遺伝子に深く刻み込まれたであろう。そのことにより、今日の彼の地の人々の社会の価値体系は破壊されたままなのかもしれない。これは数世代にわたり続いていくであろうから、今後も数世紀わたり自己崩壊的な精神をもつ国民として再生産され続けるかもしれない。そうなると、永遠にいわゆる三流国民としてしか位置づけられないであろう。現在の彼の地の社会で多くの自殺者がいることは、まさに価値体系が破壊されていることの証左かもしれない。
さらに彼の地の革命では、学者や社会の上に立つ者や英雄に加え、それとに対置される農民、一般市民が抹殺された。さらには、全ての判断を停止して、人間の自然な心の表出としての愛情を示した人間でも抹殺されている。つまり、生きようとする行為がすべて否定された。結局、普通の社会で卑劣漢とされる者たちだけが生き残った。だから、今の彼の地の人々は卑劣漢を基本モチベーションとして生きている人々とも言えないか。彼の地では彼らが信じた宗教は何らの効果も発揮していない。それどころか、むしろ宗教は大きな裏切りの象徴になったではないか。彼の地を代表する作家の作品に登場する人物が叫ぶように、「神はいない」のである。
宗教も機能し得なかったこの国は、二度と人類社会でまともな人間集団となりえないのか。そうとも言える。人を裏切った人間社会は死んでいった人々のルサンチマンにより、長い年月の中で社会的に平穏な中立的な意識を社会として持つことはできないだろう。
そうした人々は、何が人間社会において絶対に変えてはいけないものなのかをじっくり基本教育からやり直していくしかないだろう。スポーツやバレエや音楽や科学で他国を凌駕する先鋭となることは今の彼の地の人々にとって最優先課題ではないのではないか。それはあいも変わらず西欧を希求することである。真に必要なことは、人間とはどのような生物であり、どうあるべきが人類社会に貢献するのかを徹底して考察し実践していくことではないだろうか。繰り返すが、その考察は、高度な数学や科学、高邁な文学、熱烈な音楽、耽美な芸術、超人的なスポーツなどの追求ではない。いかに優れた人間集団かを世界に証明したりすることではない。人類の仲間として他者の命を奪う危険性の無い社会集団であることを身をもって体現することである。それを実践していくことで、他者からの疎外が緩和するかもしれない。
 脇道にそれるが、もし彼らの方法が正しいというなら、例えば、彼らの国の優秀なIT技術を駆使し、秀逸な人工知能AIを完成させ、そのAIを使って彼の地の人々の価値観を検証してみたらよい。そして、そうした人間集団の生き残る確率を計算してみればよい。明るい未来は算出されないであろう。
 最後に他国の歴史的足跡を省察する日本人としては、一点の曇りもないというつもりかと問われれば、少なくとも私は、とんでもない、穴だらけのザルであると臆面もなく言える。自分のことを棚に上げて他者のことを言うほど、できた人間などいなのである。それが人間というものだから。

                                            完