2009年7月31日金曜日

未成熟な土建業

これまでわが国の根幹産業であった土建業。経済成長の鈍化により、往事の勢いは無い。もちろん、経済的な理由だけではない。環境重視型の施工が求められ、コスト的に耐えられなくなったこともある。しかし、何よりも問題であるのは、コスト面での透明性・分かりやすさの限りなき低さであろう。
欧米ではコスト面の課題を「マネジメント」によって克服しようと、CM(コンストラクション・マネジメント)などの仕組みを生み出しコスト面の透明化を図っている。では欧米の真似が好きなわが国がなぜ同じ事ができていないのか。それは、土建業がひとえに産業のソフトな部分に未成熟さを内包しているからである。この未成熟さは、日本式の商習慣であるなどとも自他、評することがある。つまり、世界ルールに則れないお金のやりとりがあると言うことだ。これ故にコスト面の透明性は図れないと。
しかし、それは本当だろうか。
一面の真理はあろう。わが国だけに限らず、人の社会は利益を囲い込もうと個人、法人、政府などやっきになっている。アジア社会ではわが国以上に平然と金品の授受が行われている。が、欧米でもそんなに遠くない時代では同じであった。英国では昨今またぞろ議員の私利私欲が高まっているようだ。では何故欧米はそうしたことが時代と共に少なくなってきているのか。経済は結局のところゼロサムゲームであることが欧米人には理解されている。これは彼らがキリスト的平等観をもっていることとつながる。私利私欲で金儲けをしても、結局何らかのかたちで自分も不利益を被ることになることを経験ではなく社会・民族の知恵として知っているからであろう。そうであるなら、むしろ徹底して透明化の中で決められたルールに則って勝負をしたほうが精神的にもよいし、宗教的な価値観にも適う。
しかし、わが国の土建業の未成熟さはこうした社会価値的な側面だけによらない。家を建てた経験がある人なら分かるだろうが、どうしても納得のいかない金額を見積の中に発見するだろう。公共工事や民間土木工事でも同じだ。中途半端にコストの詳細化が進んでいるので、その部分はつまびらかにせざるを得ない。しかし、上述のような商習慣などの要因により総額的に勘定が合わないことを知っているので、それに合わせようとする結果、おかしな数字がでてくる。例えば、「一般管理費」などの費目がとんでも無く高いことがある。この数字について見積者は説明できない。できないが総額でなんとか理解してくださいと言ってしまう。依頼者も総額での要求をしてくる。こうしたことが、結局わが国の土建業のコスト面の透明化を阻害している。では何故適切に表示できないのか。それは、自分たちの仕事の適正な価格・付値をする努力を放棄していることに原因がある。コスト面の透明性が高い自動車産業などと比べるとその違いは歴然としている。
自動車産業界ができて、なぜ土建業界はできないのか。それは事業の要素の多さにも起因しよう。土建施設を構築するまでには自動車を凌駕する検討事項がある。自動車業界は比較的狭い産業構造の中で閉じているので、自動車本体を製造するコストはかなり明確に把握できている。土建業界は単純な労務管理業から、土建業界の商社であるスーパーゼネコンまでと組織形態も多岐に渡るほか、専門業態も職域に対応して存在する。こうした形態が元請け・下請けの構造を複雑にし、商習慣とやらの絡みもあり適切な契約形態を築きにくくしている。さらに、土建業では自然環境との絡みにおいて不確実なリスクが多々存在し、結果として事業リスクとなっている。こうしたリスクヘッジのために、勢い経験則に基づく見積をせざるを得ないという事情もある。
 しかし、これらの事情についての見解は、かなり土建業界寄りであろう。リスクが存在し、その発生が定常的であればコストに見込めばよい。発生が不定期なら、保険商品を開発すればよい。つまり、他の業界がやっているように業界として努力すればできることである。海の向こうの彼の地はそのようにしているのだから。
そうした努力を放棄した結果、いまや土建業界はじり貧の憂き目をみている。適切な利益の基準作りを怠ってきたために、儲けてもそれが過大な儲けかどうかさえ見当がつかないといったことだっただろう。儲けられるときはなりふり構わず儲け、渋られると過小の取り分で堪え忍ぶ。そうした非科学的態度が今の状況を導いてしまった。
 土建業界は今後成熟するのだろうか。それは外圧次第だと思う。現時点でわが国社会が貯め込んでいる社会資産を吐き出させようと外圧が働き始めると、日本独自の商習慣などとは言っていられなくなる。とくに中国がわが国の土建業界に進出する日には、彼らの商習慣で攻めてくるのではなく、世界ルールで攻めてくるだろう。つまり、中国が世界に打って出る日には、彼らは世界ルールに順応した戦い方をすると考えられる。そうした状況になれば、わが国の土建業界も成熟せざるを得なくなる。そんな風に、頼りない自発性の無い変わり方を成熟するとは言わない。島国のガラパゴス土建業界に明日は無いのか。

2009年7月14日火曜日

気づき

人が自覚的に認識することを「気づき」と呼ぶ。認識の対象は何でもいいのだが、自覚があることが重要なポイントである。例えば、ある空間に一人でいるとき、誰かが入ってくれば音や姿や気配で気づく。そんなときには、知り合いであれば顔を上げて、声の一つも掛けるだろう。しかし、初対面であったり嫌いな相手であれば、気づいても気づかないフリをする。ここでは、この状態をテーマとする。
この場合、主体が気づく&客体も気づく、主体が気づかない&客体も気づかない・・と4つの状態がある。険悪な仲であれば、お互ともに気づかれたくないのだが、その保証は無い。しかし、人は希望的に状況を理解する傾向がある。「あの人には気づかれなかった。こっちを見ていなかったから。」または、上記の4つの可能性を楯に、「私はあの人がいることは全く気づかなかった。他に目を奪われていたから。」とも、よく主張する。
まさに可能性だけの問題なので、気づいていたかもしれないしそうでないかも知れない。しかし、通常人は気づいていなかったと主張することの方が多いのではないだろうか。そのことが不誠実さを感得させ社会に不信感を蔓延させているようにも感じる。
いくつかの例を見てみると、例えば電車のシルバーシートに座っている際には、高齢者が目の前にたっても気づいていないように振る舞う。実際には多くの人は気づいている。というのも、シルバーシートに着席する時点で自分が座る資格がなければ、警戒心が働く。警戒心があるにもかかわらず、前に人が立っているかどうかも気づかない人はいない。勿論、泥酔者や爆睡者、無神経者など平均値から大きくずれている人は除いて議論している。
別の例だが、政治家が献金の実態を掌握していない、気づかなかったというのも、実際には気づいているのに不正直な発言をしているだけだ。気づかないとの可能性すらないと言って良いだろう。一般的には、よく、人は多忙なので気づかなかったという言い訳をすることがあるが、物事に気づかないほどに多忙になれば、そもそも仕事などこなせる精神状態にはなくなる。また、気づかないような社員に仕事を依頼するはずがない。政治献金が社会的問題になっているにもかかわらず、そのことに気を向けない政治家がいるはずがない。気が向かなくなったら、政治家家業を続けていくだけの精神状態にはない。政治献金が多いと言っても年間多くたって1000件もあるだろうか。それを職員が処理するとしたら、半分専従になるぐらいの処理量となる。そんなことを毎日やっている職員の報告を聞かないあるいは聞けない政治家などいるはずがない。つまり、政治家が自分に対する政治献金の状況を掌握していないなどということは正に政治家らしいウソである。仮に件数が少なくても、「ウチは献金は大丈夫か」と聞かない政治家はいない。
 このように人は気づかないと言うとき、多くは不正直に言っている経験があるので、他人が気づかないといった際には相手の言をほとんど信用していない。つまり疑っている。この不信感が相互にあるために、社会が殺伐となる。では、その逆の命題として、人が気づいたときに正直に行動するならば、社会が穏やかになるのだろうか。その答えは、そんな社会は無いので正しいとも間違いとも言えないが、人間的な感覚から言えば、答えは否であろう。結局のところは、極端を排して中庸であることが安定的な社会を実現するということになりそうだ。そのためには、人は日頃から数回に1回は正直になることであろう。その日の終わりに、今日は何回正直であったかを懺悔するようになれば、中庸が実現し社会は穏やかになるであろう。

2009年7月9日木曜日

パソコンの致命的な課題

今年から本格的にブレークした低価格パソコン。凌ぎを削って低価格を実現しているメーカーには頭が下がる。でも、安くなっても軽くなってもパソコンには課題がある。それは、一部の製品を除き、基本的に立ち上がりが遅いという致命的な課題。僅かに3分程度かも知れないが、こまめに電源を落す者にとってはレジュームからの立ち上がりでも気に障る。テレビのように瞬時に使用状態にならないものか。
 パソコンの立ち上がりが遅くて何となくパソコンを利用することが煩わしく、利用を控えている人も多いだろう。別に利用者を拡大させたいので立ち上がりを早くして欲しいと言っているのではない。第二の産業革命と言われるパソコンは自動車よりももっと人間に親和性があってほしい。それによって、人間活動の支援が図られ、結果として資源利用の効率化にも繋がる可能性が高い。
 では、どうしたら素早く立ち上げることができるのだろうか。技術的には可能だと思われる。小型のパソコンで実現しているようなOSをメモリに保持する形式などがありそうだ。立ち上げでパソコンが行っていることは、OSをメモリに読み込んでいること。それを毎回毎回繰り返している。勿論、毎回同じ内容で読み込みをしないだろう。だとしても、立ち上がった環境の9割は共通すると思われる。だとすると、9割はメインメモリ内に常駐、つまり最初からICに焼き込んでおけばよい。通常は僅か1割の違いを修正すればよい。このように言うと、それでは特定の会社のOSに依存するのではないか、とかOSは進化の途上だからどんどんパッチをあてて書き換えなければいけないので不向き、といった指摘があろう。しかし、いつかは安定するであろうOSを待つより、現状で一定程度安定的に動くOSをインメモリにすればよい。もっと言うと、現状の構成に安定的なOSをIC化したボードを追加することがよい。コストの問題はパソコンメーカーが解決すれば良くて、瞬時に立ち上がるパソコンが欲しいと思うユーザは多少コストが高くても購入するであろう。BIOSの書き換えに似た方法やフラッシュメモリに取り込むという手もあり、少しの工夫で可能と思われる。
 即時立ち上げの意義は、人間の意思決定のサポートをする道具がパソコンであることにもよる。意思決定には通常、スピードが要求される。そこにパソコンがあるとき、思いついた瞬間に、あるいは即時の対応に使えなければありがたみがない。他方、即時の対応に使えるツールとして、携帯電話がある。だから、携帯電話は人の行動様式に適うものとして国や民族を超えて利用されている。携帯電話とパソコン、両者は帯たすきの関係にある。もちろんどちらかだけに特化させるのは技術や可能性の広がりを減じるので、相補関係にあってよい。しかし歴史的にみると、開発者はその中間のPDAなどをつくってきた。きっと、帯たすきを超えた何かを目指していたのであろう。例えば、ウェアラブルコンピュータのような。そういえば、googleが無料の素早いOSを開発し来年には供給予定という。やはり、革命を起こすのはgoogleか。期待したい。

2009年7月8日水曜日

公共空間でのプライバシー侵害考

 Googleストリートで初めて訪れる地区の街並みを観ようとアクセスした。そこで不思議な光景を目の当たりにした。訪れようとする地番に方向を変えると、急に真っ黒くなるのだ。そうか、これがプライバシー侵害を理由にgoogleに削除を求めた結果なのだと気づいた。結局目的地の様子は分からずじまいだったので、地図を当てになんとか目的地にたどり着いた。用件が済み、帰りがけにプライバシー侵害が心配される建物があるかしばらく見渡してみた。しかし、何の変哲もない日本の街並みであり、人が妬みそうな屋敷があるわけでもなく、拍子抜けした。
 国が違うので何ら比較にはならないが、欧州諸国では道路や建物の前面は公共空間と位置づけられているそうだ。そのため自分の家だからといって、条例などで定められている材料や色以外のしつらえで家の顔を飾ることはできないそうだ。勝手にやると条例違反でもあり、撤去ややり直しをさせられるとのこと。かくして、欧州諸国の家並みは統一され、美的である。それを世界各国の人々が観て賞賛する。もちろん日本人も例外なく。しかし、ひとたび日本に帰ると、我が家は自分のものだから、自分が良ければ他人にとやかく言われる筋合いはないと決め込む。ついでにgoogleにも文句を言って、googleストリートから削除してもらう。これで安心。
でも何が安心なのか分からない。隣近所と統一の取れないデザインの家を建て、何に満足しているのか分からない。彼の地のようにみんなが合意できる基準が無いのだから、一人一人が他人に合わせることをためらうのも分からないではない。しかし、その一方で国ではビジットジャパンなどのキャンペーンを張り、諸外国から日本の街並みを見に来て貰うべく美しい景観づくりをしようとの政策を進めているようだ。しかし、このような現状で諸外国の人々が感心し、わざわざ見物に来るような建物や都市景観を造り得るのだろうか?答えは無理。無理だと思うとか考えるではなく、現実的に無理。仮に名前だけの景観法ではなく、景観統一のための強制を伴う法律案を作ったとしても、国民に得心をえて受け容れられることは無い。何故なら、この根本原因はくだんのプライバシー侵害意識にあるから。日本流のプライバシー保護を主張しているうちは、いわゆるme-ismから抜け出すことはない。自分だけが良ければいいという感覚と、自分だけが犠牲的に欲望を抑えても誰も賞賛しないし損をするだけだというさもしい感覚、そんなことをして何の特になるのかという損得勘定、そんなことに効果があることを考えたこともなかったという無知主義。まあ、どれをとっても街並みをユニバーサルな美しさをもったものとしていくことは現在の国民価値、政治体制では無理であろう。江戸期の整然とした町人長屋を良い景観だという人もいるが、欧州をはじめとして整然とした景観は個人が造りだしたものではなく、時の為政者の強制力にほかならない。良くも悪くも民主主義をとっている日本において、また、ますます統一性が希薄となるであろう地方分権制度下においては、街並みは統一感を欠く方向に向かうであろう事が容易に推察される。一つの可能性としては、かくも奇怪な景観は日本にしかないというような、他の国では実現しえない街並みとなることかもしれない。
 自国民の総意なら、それでもよいとは思う。しかし、プライバシー侵害意識が合理的な観点から是正されるなら、もっとユニバーサルな国民になり得るとも思う。