2016年8月1日月曜日

人間という動物の特性を的確に捉えていない諸思想、宗教

 人類が発明した諸思想、諸宗教は、現時点では人々の満足感に反して、人間社会に平和をもたらしているとは言い難い。
その根源的な理由はどこにあるのだろうか。考えられることは、それらは本来、人間のための思想、宗教であるのに、その対象である人間の特性にそぐわない、換言すれば人間性への深い理解が無いからではないかと、ということである。ただ、思想や宗教にはそうしたことが必ずしも明瞭な形で表現されてはいない。むしろ注意深く丁寧に読み解かないと分からないかもしれない。しかし、実はその答えの一つは、案外すぐに見つかる可能性もある。その答えを探すためにも、まず一旦、人間をゼロベースで見つめ直すことから始めるのが近道かもしれない。
さて最初に考察する人間の特性とは、即ち、動物としての人間の特性であることは論をまたない。何故に動物にまで降りてゆかねばならないのかと訝る向きもあろう。だが、通例、人間は知性をもつ動物であり、他の動物とは比較することすら意味が無いのだとばかりに、「高次の知性レベル以下の低次な動物としての人間」の観察を通り越して高次の知性レベルから事を始めるから、大いなる混乱が起こっていると思われる。
 人間を知能を持たない動物一般の一種族ととらえたとき、それは他の数多の動物と同様、食物を摂取し、排便し、動きまわり、声を出し、子を産み育てる動物であるに過ぎない。このような状態においては、人間は他の動物と同様、食物を確保し飢えを凌ぎ、子孫を残せなければやがて種が途絶えてしまう。また、他の多くの動物では、天敵との戦いも考慮に入れなければならない。人間はどうか。現実には、人間は知能があるから、唯一天敵を持たない種として動物界の頂点に君臨し続けてきた。知能がなければ、人間より大型の動物に捕食されるのが自然界の常道であろう。しかし事実として、人間は知能をもつ動物である。知能をもつことで、人間という動物は他の地球上の動物とは比べ物にならない力を有している。従って、知能を持たない動物として人間を考察するには限界があるが、一般の動物に知能を持たせることでの違いに着目することはできる。
実は、この点を熟慮しないことが冒頭に掲げた諸思想、諸宗教が誤ってきた根源であろう。つまり、人間は、高度な知能を有する故に、他者との比較における「差異」というものを明確に認識し、差異に質的をも含む序列を考察し、言葉を使い長く記憶に留めることができるのである。周知のとおり、人間は、現時点では人間対他の動物の比較において、圧倒的に人間が優位に立つと判断している。そして、人間は、この差異を人間対人間の中にも持ち込み、他者との差異に着目することにより、優位・劣位を論じる。人間が知能を持たない動物であると仮定した時には、人間は他の動物との力の比較により優位であれば存続可能であり、劣位であれば存続ができないと言うものであった。対動物では、生き残るためには人間は優位であり続けなければならないとの見方をするであろう。対他人であれば、食料や生活資材を確保しつづけるためには、集団の中で優位であり続けなければならないと考えるのは自然ななりゆきである。この差異に基づく優劣感は、動物としての人間が持つ認識に端を発し、その延長から生じているものである。
ところが、人間はまたこの優越感だけで放埓に生きる動物でもない。そこには一定の抑制、すなわち制御が見られる。勿論、他者との対峙における戦略ゆえの制御である場合もあろう。しかし、自然と湧き上がる優越感を制御しようとするのは、実は、ひとえに地球を含む世界が有限であるからに他ならない。有限であればこそ、すべての競争はゼロサムに帰するので、一方的な獲得は他を疲弊させ殲滅してしまうことに通じる。ここに来て初めて、人間は「抑制」することを認識する必要性を体得的に感じるのである。
人類社会にとっては、この抑制を人間としてどのように実践するかが大きな問題となってきたのである。自然状態では、協力するより闘争しがちな人間集団。人類の歴史においては、差異を抱えた人間集団を維持するために多くの知恵が試されてきた。例えば、人間の上に立つ絶対者「神」を措定することにより、神のもとでは人は平等であるから分かち合いながら助けあいながら生きるべきが合理的であるという知恵を得た。これは動物としての人間の視点からは、全てに勝る全能者また、「善・悪」により物事を判断するという知恵も得ている。善いということは、集団に益することであり、悪いということは害すること。極めて分かりやすく、かつ善いことをなすことにより、正義感さえも感じるよう人間の生理は造られている。しかし、実は、この善悪という知恵こそが、人類を混乱に陥れているとも言える。善と悪の二元論を人間の存在に当てはめた途端、通底する有限性の中では、存在の善悪と消滅の善悪が問われることになる。
善と悪の価値が問題であるというより、善と悪を適用する対象が極めて多様であるにも関わらず、適用が雑であるといった方が当たっているであろう。例えば、人種に善と悪を適用するなどは愚の骨頂であるに関わらず実践した国があり、その結果として少なくとも1,000万人におよぶ殺戮を招くという取り返しのつかない愚行を人類史上の中でつい70年ほど前に犯してしまった。
身内を殺された者が、殺した相手に善と悪を適用すると、悪と判断される。そこから敷衍して人を殺した者は絶対的に悪であるとなると、悪意をもって襲いかかられた結果、その者を殺してしまったとしても悪と判定される(勿論、正当防衛などの例外も設けられるが)。様々な例外に目をつぶると、雑な二元論では多くの命が犠牲になる。それが明文化されるなどすると、事の善悪より決められたことを遂行するのが人間の責務であるといった別な生理機能が働き、ただただ機械的に殺戮を行ってしまう。あのアイヒマンでさえ、そう言いのけた。人知を結集して開発するAIでさえもそのような過誤に陥ることが容易に想定される。
では、雑な善悪の判定を回避すべく判定の詳細化することで、そのような混乱や悲惨は回避できるのであろうか。勿論、その効果は一定程度は期待できるであろう。しかし、食糧資源の例を考えてみよう。地球の食料資源は有限なので、それは善の観点からは適正な消費が求められる。これ故、過剰な人口は悪だから減らすべきだとの根源的な議論が出現する可能性はある。つまりこうした白黒をはっきさせることで人類の全体幸福につながらない問題に素朴に善悪の詳細化を導入すると、結果として一人一人が食料を摂取するに値する人間であるかを判断されることにつながる。このことは、有限である食料の効率的な運用という面からは意義があると総論賛成の人でさえ、明日は自分が食料を摂取できなくなるかもしれないという恐怖を毎日感じながら生きることになり、心理的パニックに陥るであろう。その結果、そこまでして生きることに意義を感じない人々も出てくるであろうし、そんな判断をする機械や組織を打ち壊してしまおうという動きも出てこよう。
つまり、善悪の判断を導入するということは、「排除を正当付ける」ということと同義となり、民心穏やかではいられなくなる。どんなに心を砕いて話し合いをしようとも、排除の対象になる人々は総論賛成ではあっても各論では受け入れを拒否することになろう。特に知能を持つ動物である人間は、自己の判断による意思決定だけではなく、他者、取り分け家族や友人といったシンパシーを感じる者たちとの繋がりの中で意思決定することが多々あり、善悪などという単純判断では割り切れない複雑系なのである。
従って、諸思想や宗教が人間としての生き方に善悪の判断を明文的に示してきたことは、人間という動物の特性に照らすと、究極にはなじまなかったということになる。
 ではこうした複雑な知能を持つ動物特性にそぐうための諸思想や宗教はどうあるべきなのか。すなわち、まずはそれらから善悪の判断を示す事項を取り去ればよい。ある宗教などは、善悪の判断だけで構成されているようなものがあり、一旦、善悪の判断を抜き去ると、経典の中身がなくなってしまうものもでてこよう。それでも良いと思う。そのような宗教は人間の心を乱し、実害のあるものであったであろうからである。
では善悪は全く必要ではないのか?そうではない。善悪は思想集や宗教・経典が示すのではなく、最終的には個々の人々が判断するのである。思想集や宗教・経典は方向性を示したり推薦したりするだけに留めることで良い。つまり、例えば、「他人に感謝することは善いことである。」との経典は修正され、「他人に感謝する生き方を心がけたい。」とすればよい。人間は、心がけをする生き方の中で、感謝する生き方が善いことに繋がることもあろうし、却って悪いことになることも経験するであろう。それが実際の世の中であるからである。個々の判断は個々の人々の知恵と経験に委ねればよい。もし、人類社会の大宗を占める宗教がそのような経典に様変わりするのであれば、現状見られるような悲惨な事件は減っていくかもしれない。宗教がなくなれば途端に人生に迷う人間で溢れてしまうという主張をする向きもあるだろう。しかし、例えば日本人などは特段の宗教はなくとも、他の国民や民族に著しく劣っているようにも見えない。宗教はなくても、本来宗教が目指す心意気を日々の生活の中に見出しているからであろう。そういう意味では日本人は宗教心をもっており、日本人にとっての神は究極、自分自身であると言えるかもしれない。この場合、神だから万能とか言うつまらないことは価値として感じず、自分の中に信じるものが神であるという感覚かもしれない。
 このように思想や宗教を動物としての人間の特性にあったように見直していくことで、人々の生活価値観は今以上に好転する可能性がある。ただ、このような見直しが重要であると気づくためには、人類がその価値を共感し認識することから始めなければならないだろう。だが、個人や団体の努力だけでは辿りつけないおそれがあり、その意味では先行きはあまり明るくないかもしれない。ただ、われわれ人類が知恵を持つ人間集団であるのであれば、その可能性を信じたい。

                                      完