2020年1月13日月曜日

中心市街地活性化考

中心市街地の活性化が善であるとは、おそらく国民の誰もが否定しないことだろう。
それにも係わらず、中心市街地から人が減り続け、閑散としているのは何故だろう。
活性化が善だと言っている人は中心市街地に自ら出かけているのか?多分そうでは無いだろう。多くの人が中心市街地は活性化するのが良いと思い、ことあるごとに中心市街地に足を運んでいるのなら、人影が少ないはずは無い。
つまり、人々は中心市街地に行かないのだ。ならば、中心市街地の活性化など必要ないのでは?
たぶん必要が無いのだろう。必要が無いにも係わらず、官民そろって声高に活性化を叫んでいるのだろう。カラー舗装や公園、アーケードなどの整備に税金を投じているが、そこには人がいない。
もし、人々が中心市街地などは不要だと明言するのなら、こうした無駄な税金は投入されなくなる。中心市街地に投資する数十億円から数百億円の税金をその町に住む高齢者や失業者に割り当てたら、人々の生活はもう少し楽になるかもしれない。
こうしたことを冷静に受け止められる市民や行政や政治家がいないのは何故だろう。実は多くの人々は気づいているのだ。わが町の中心市街地に税金を投資したところで、日常生活に必要な食料品などが安くなる訳でもない。賑わいといっても、中心市街地だけに雇用の場があるのでもないので、平日は中心市街地の商店やわずかな業務施設に働く人たちが行き交うだけである。休日は、郊外のイオンなどのショッピングモールで家族で楽しく便利に買い物をする。または、ネットでショッピングをしたりこのブログなどを読んでいる。だから、中心市街地には人は集まるはずがない。
よく本末転倒な議論として、郊外にSCが立地するのはけしからんとの主張があるが、その主張をしている当の中心市街地の商店街の店主がSCで楽しんで買い物をしている。多くの市民も、「郊外にSCが乱立するなんてホントに良くないわ」といいながら、競争によって安くなった日常品をありがたく購入している。実は、良くないと言っている当の本人は、何が良くないのか分からないというのが本音だと思う。実際、その人に何故郊外SCの立地が良くないのか、思う理由を聞いてみるがよい。多分、中心市街地の商店街が疲弊するからとステレオタイプな回答をするであろう。でも、私はイオンで間に合ってますから、と付け加えることは忘れないと思うけど。
これからの都市計画は、中心市街地が無くても活性化(従来の意味での活性化ではない)する都市づくりが求められるだろうね。

裁判員の迷いに思う

裁判員制度の運用第一号が8月4日から始まった。日本でも、1928年から1943年まで陪審員制度が運用されていたそうだから、この種の制度運用は史上初ではない。しかし陪審制度が運用されていたわが国の社会状況、国民心理は、現在とは大いに異なっていると思う。そうした点では、本格的な民主主義社会史上では初体験であろう。
裁判員制度が今年5月にスタートするまでに、新聞では国民の偽らざる心境を紹介していた。それらに共通することは、自分に人を裁く権利があるのか、どういう量刑が妥当なのか分からないといった不安が示されていたことである。私はこうした世の人の考えに違和感を覚える。一国民の立場では、人を裁く権利は無いであろうし、素人では量刑の目安など分かろうはずがない。制度の元になる法律で求めているのは、国民に人を裁く権利ではなく「義務」を与えたことである。司法は国の重要な柱となる制度として、これまで専門教育を修めた者だけに付託してきたが、その専門的判断に国民が疑問を投げかけたことなどもきっかけとして、この度の裁判員制度が生まれた。本来は、国民が国民を裁くのは何ら不合理性が無い。民主主義の代表格である米国などでは積極的にそのように運用している。平均的な日本人が感じる、罪を犯した人を裁くなど私にはできない、と言う感覚は、家の中はきれいにしているが公共空間には平気でゴミを捨てる感覚にも似ている。単純化すると、社会は複数の人から成り立っていて、そこに不穏分子が出現すれば、社会の安寧のために皆でその不穏分子の処遇を決めなければならないというのは極めて明白なことであろう。裁判員への不安を口にする人は、不穏分子の処遇は社会の構成員の私でなくて、他の人がやってくれればよい、ということと同義だ。処遇の具体的な運用策は様々な形があろうが、原理原則は単純化したようなものと考えられる。その意識を根底に持っている必要があるし、そうして初めて罪を犯した人からも罪を犯された被害者からも逃げることなく正しい判断ができよう。さらに、日々、社会における正しい(平和を乱さない)行為とは何であるかを考察する習慣がつき、犯罪の少ない社会をつくりあげることに寄与できるというものだ。極めて国民皆の利益の向上にかなっている。
4日と5日の新聞記事には、裁判員を経験した人の意見があった。そこには、加害者を実際に見た最初の印象と状況証拠の陳述を聞くうちに加害者に対する印象が異なってきたが、印象(心証)がこんなに変わって良いものだろうか、ということを述べている。これらは正に裁判とはこのようなものというのを肌身で感じているので、よいことだと思った。これこそ弁護士の腕の見せ所であり、反対尋問などにより、双方自己正当性正を主張しあい、相手の非を攻撃することを見聞きしながら判決に向けた心証を形成していけばよい。しかし、私が現在の法制度の運用に疑問をもつのは、例えば今回の事件では、「殺意のあるやなしや」が大いなる論点と言われることについてである。
人が殺されるまでには様々な理由や偶然や意志があることは論をまたない。それは過程である。一方、生きていた人が命を奪われる事実としての結果が厳然としてある。その命が奪われることへの正当性?を今の法制度では裏付けようとしているように強く感じる。どのような理由や過程があろうとも、何事もなければ生きながらえた命を偶然であろうと故意であろうと殺めてしまった事実については、その引き金をひいた人を裁かない訳にはいかない。偶然であるので、その人には責任がないので、裁くことができない、という法制度にこそひずみがある。法制度は解釈の体系であるので、現時点ではたまたまそうした解釈をする人知が無いだけであるというのが正しい理解だろう。しかし、人は法解釈で示される判決文を遙かに超えた判断を瞬時にできる能力を持つ。故に、そうした判決には大いに違和感をもつ。どのような理由があろうとも人間一人を殺めたその人に罰を与えることに、人は違和感を覚えない。これこそが最も合理的な判断であろう。法が社会の安寧を図るためにあるなら、こうした運用こそが正しいと言えよう。日本の裁判が加害者の庇護に強く、被害者の保護に弱いのは、社会正義が図られていないことの証左である。それを是正しようとして裁判員制度が生まれたのだが、従来の間違った法技術をそのまま運用するのなら、正しい裁きは望み得ない。
最も基本となる思想は、命は命でしか贖えないとことである。命は最低限等価性が成り立つ。高名な大臣が名もない若者に殺害されても、両者は命の重みが同一であると言う点で平等である。その貴い命が殺められたのにもかかわらず、死刑や無期懲役が言及さえもされない判決もある。何故そうなるのか。それはこうした基本思想が法制度の底流にないことによる。日本の法制度がどのような明快な思想で構成されているかを端的に言える人はいないし、書籍も無い。こうした制度では多義解釈が起こるのが明白であり、裁判官によっても正反対の判決がままあるので、勢い判例に解答を求める。しかし、そんなことを繰り返していては国民経済に悪影響があるだけでなく、国民の正義感にも大いに悪い影響を与えるので、最終判断をする仕組みが要る。それが最高裁判決だ。最高裁判決が真理であり、地方裁判決が誤謬であるはずはないが、どこかで「決着」をつける必要のために最高裁がある。
命の等価性の観点に加え、憲法が保障する思想・表現の自由も考え合わせる必要がある。巷にはかなり危険な思想や表現があふれているが、民主主義社会を育むためには思想や表現には公共の福祉の限度を超えない範囲で自由を保障している。だから、私を含む国民は、頭の中ではどんなことでも考えられるし、ウェブなどにも公共の福祉の限度内では自由に表現ができる。「殺意」を抱いたかどうかが争点である、といったことは、こうしたわが国の憲法の観点から見ても、それを争点にするには不整合がある。殺意などは当然持っていると考えても良く、また加害者が殺意を否認したら、それも正しいということになる。殺意があろうとなかろうと、刃物で刺したら死んでしまったのなら、殺した事実があるので、それを問うことであろう。勿論、たまたま草刈りにでも使おうとして持っていた鎌に隣人があたってどこかが切れて死んでしまったのなら、情状酌量の余地はあろう。しかし、今回の事件のように刃物をもって往来を歩く行為自体が不法であるのだから、殺意を持とうが持つまいがそこを論点にすること自体が法側を迷宮に入らせしむる理論と考えられる。裁判員制度が今後しばらく運用される中で、国民が今の法制度の欠陥に気づき、法担当者が真剣に議論し改善するなら、わが国には未来があるような気がする。私も裁判員となる日を心待ちにしたい。

人に寄り添うクルマづくりをめざせないか

 クルマづくりが人に寄り添っていないという皮膚感覚は、長い間クルマを利用している私にとってはある意味利用するたびに感じる正直な印象である。その感覚が去年はかなりピークに達した。

クルマはかつて日本の経済の屋台骨であり、この産業の儲けや技術力のおかげで日本の国土も先進国並みに整備することができた。もちろん化石燃料を燃焼して走行するため深刻な排気ガス公害や交通事故禍などの社会問題も同時におきはした。
 しかし、自動車による人やモノの移動なくしては、いまの社会はつくり得なかったことも確かであろう。それだけに、国民の多くが日々利用する、あるいは利用せざるを得ないクルマはもっともっと人間が利用しやすい機械あるいはシステムとして成長してほしいと誰もが願っている。こうしたニーズに自動車業界だけでなく、多くの人々が取り組んできたのも確かであり、これは世界の流れでもある。事実、ミスを犯しがちな人間による運転を安全に支援する自動運転については、もう20年以上前から取り組まれてきた。AIの実用化もあり、一昨年あたりから運転の安全支援機構をそなえたクルマが市場に進出し、関連する法制度も改正されている。
 冒頭の違和感とも言える皮膚感覚がピークに近づいたのは、こうしたことも一因にはなっている。クルマがAI支援となれば、究極には人は乗り込むだけで事故もなく安全に目的地に着くことができる、ということだろう。しかし、現時点ではまだまだその境地には達していない。仮に人がハンドルから手を離して自動運転が可能となっても、クルマにまつわる事故はまだまだ起きうる。クルマは、停まっているところから安全に走り出し、また停まるという行為を安全に行うことができることが期待されている。現時点で喧伝されている自動運転は、走り出した後が主である。しかし、クルマが利用される自宅の車庫や街なかの駐車場には、誰でも簡単に安全にクルマを停めづらいところが多々ある。こうしたことを自動で行える機能を開発することは、クルマ産業の目標には明確に位置づけられていないように見える。自動化までは難しくても、運転するクルマの四周の様子が目視できたり、何かに接触しそうになったりすれば報知したり、あるいはクルマを止めたりする機構の開発と実用化は、現在の技術力で不可能とは言えないのではないだろうか。

 去年は未曾有の全国的な台風被害、とりわけ水害により、多くのクルマが被害にみまわれた。台風や津波などの被害報道の映像では、クルマが水にながされる光景はみなれたものとなっている。こうした被害にあったクルマは水が引いたあと、クルマの移動処分だけでなく、財産の損失、移動の足の損失などさまざまな社会的コストがかかる。とくに運転中に水害に巻き込まれた場合は命にかかわることも報じられている。
こうした報道をみていて疑問をいだくのは、クルマを開発・販売しているメーカーなどが改善などの対処にたいしてほとんど見解を示していないことである。もちろん、国の機関をはじめとして、クルマが水害に遭遇したときの対処として、クルマが水に浸った場合に起きうる機械的な不具合などについてまとめて公知しようとしている。しかし、これらはクルマが水に浸かったときの利用の心得であり、一言でいえば大量の水に浸かりそうなときにはクルマの利用は避けてくださいといったアラートにすぎないし、不具合などについても古くからの知見ではある。

 先に指摘したことは、水害時にクルマが水に流され、水が引いたときに復旧の支障になったり財産として価値を失しなったりすることへの対応が不十分ではないかということである。これは水害時にクルマを利用しなくても起こることで、クルマの社会的な位置づけに関することである。単にクルマを製造販売しているグループだけの責任として帰すことはできず、クルマの利用・規制などそれぞれに社会的な役割分担があることは明白ではある。財産としてのクルマが水害で壊れた場合は、車両保険などの補償が期待できる。しかし、クルマが停車場所から流出し家屋などに被害を与えた場合は補償の対象外であるようだし、車内に閉じ込められて不幸にしてケガや死亡した場合も明確ではないようだ。こうしたことへ保険の守備範囲を広げれば済むという見方もあるだろうが、そもそも水害に強いクルマを開発するという視点もありうる。

たとえば一つのアイデアとして、クルマがまだ水没しない水に流され始めた時点では船舶と同様の挙動となるので、クルマを駐車場などに係留する装置があれば、流出することはない。水没し水圧によりドアが開かなくなり水死に至るおそれがあると分かっているのであれば、水没しないクルマとする改善余地もあるし、ドライバーが窓を破るハンマーを備え忘れても人力でも水圧のかかるドアを開けられるような機械機構をそなえるよう改善する余地もあるだろう。クルマが水没せずに駐車場で係留できるのであれば、浸水のおそれがある危険な家屋にいるより、車内で水が引くまで安全に避難することもできるだろう。こうした工夫は、現在の技術水準で十分に対応可能と思われるし、開発されるクルマもこと日本国内での利用に限らず世界各地で利用できるだろう。

こうしたさまざまな改善、工夫の余地がありながら、昨年のモーターショウではそうした困難を克服するような未来型のクルマのイメージは示されなかったと報道されていた。とくに近年、クルマはネットワークが重要といわれ、クルマのバッテリーがコンセントを通じて家屋内の電力需要をまかなえるなどといったイメージも示されている。しかしここだけに注目しても、水に浸かったクルマでは発火のおそれがあるのであれば、特定の状況での利用しか考慮されていないことになる。また、情報などのネットワークが新しいまちづくりを実現するといったことは、クルマの未来像に限らず近年いわれているが、イメージ先行であり、人々の現実的な生活の改善にどれほど効果があるかは疑問ではある。
このようにクルマは社会の円滑な運営にきわめて重要な役割を担っているのに、あいかわらずクルマのCMといえば定番のデザインと走行性に主眼をおいたものが主流であるのも違和感を覚える。

人の移動を支えるクルマは当分は社会の重要なインフラであり続けるだろう。それだけに人に寄り添うクルマであってほしいと心から願うのである。