2009年8月7日金曜日

社会主義の劣位性 080828 

 貧しき人々、地下室の手記、怒りの葡萄を続けて読んで想記したのだが、前者ロシアの作品と後者アメリカの作品の大きな違いは、個人が社会システムに参加する余地があるか否かの違いにあると感じた。すなわち、社会主義には社会システムを壊す自由が全くないのだ。
自由主義には貧富の差が生じ、貧しい人々は資本主義に押しつぶされ、生活の自由が剥奪されているように写る。しかし、努力やチャンスにより生活レベルを向上させることは全く不可能ではない。かたや社会主義はまるでカースト制度のように個人を峻別する。帝政ロシアの時代はその後のソ連の社会主義とは異なるのだが、この時代にすでに萌芽がみられる。ロシア人(ナロード)の絶望的な叫びは、自己の力ではどうにもし難い、社会システムの堅牢さによる。
片や、初期のアメリカの貧困には、資本主義の大波に飲み込まれ、行き先を閉ざされながらも一縷の望みが失せない人々がそこにいる。また、今時のオバマ旋風のように、社会階層であった黒人階層からも大統領が生まれる希望が残されている。

ロシアにおける見えない手の恐怖とやるせなさ、失望は、結局人間をだめにする。かつて中世以前の人間は、進歩の概念なく人生を生きたといわれるが、まさにそのようなものだ。
神を失った以降の、ものを考える人類は、嘘でもいいから明日は今日より進歩していたいと切望する。近日考察した、N+1が無い人間社会は、必ず疲弊し、人から希望を奪いさるものとなろう。
 よって、かつてから薄々感じていたことだが、社会主義は個人の創意や工夫を一切評価しない社会システムであったからこそ崩壊したのだとのことを、別な確度から補強するものである。
ロシア人とは、もしアメリカのように自由主義にすると、多分、とんでもないことをやらかす人民なのだろう。だから、社会主義の名をかりて、人民が人民自らルールを敷いたのであろう。そう考える方が、合点がいく。

以上

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