2009年6月29日月曜日

日本の政治・行政の問題点

現下、巷には先の見えない失業問題、政治のドタバタ劇、北朝鮮問題等々、枚挙にいとまがない社会問題が山積している。勿論、どこの国だって、五十歩百歩だろうし、なんと言っても社会問題の認識はもっぱら新聞やニュースをとおして、つまり、その国のジャーナリストの処理がほどこされた情報に基づいて形成されるので、ひょっとしたら描かれている報道と実態は異なるのかも知れない。
でも、でも、やっぱり今の日本の対応はかなり問題があると思う。何が問題かといって、知恵がほとんど発揮されていないこと。物事の理解と決断が近視眼的であること。国民性だから仕方がないところだが、昨今ほとほといやになってくる。
 失業問題ひとつを取っても、米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況だから、自動車メーカーが人減らしをするのも仕方がないか、的な政治・行政対応しかやっていない。民間企業の質が悪くなっているのは確かだとして、彼らの行ないをただしたり、セーフティネットを張ったりと激変緩和をするのが政治の役割。いまのシステムだと、入力がそのまま出てくるような、全く浅はかな政治・行政システムとなっている。経済成長を支えるには消費税が云々、と言っているが、そもそも金の使い方が分からないのだから、いくら消費税を上げたところで、社会問題が抜本的に解決するはずもない。
 政治家・役人は古くから洋行し先進諸国の知恵を吸収し、真似をしてわが国に適用してきた。しかし、それから100年以上たっても、相変わらず米国や欧州の追随をしている現実がある。社会体制の異なる中国ならまだしも、曲がりなりにも資本主義の日本が、自分で考えることもせず、他国のまねごとをしているのが、正に知恵のないところを露呈している。
 経済学一つをとってもそうだが、現在の経済学は基本的には「米国の」経済学であり、「日本の」経済学ではない。米国が米国社会や世界向けに、自国が儲かるように工夫した学理であるので、それをそのまま日本にもってきて適合するはずがない。サブプライムローンの発端だって、米国が造り上げた金融工学に多く依っている。米国流の経済学を盲信し、ただただ追随し、日本国内にも大きな経済的痛手を被らせているのが日本の経済学の現状だ。(だからといって、経済学の本質から外れた幸福論てきなまやかしの理論を提唱することを望んでいるのではない)。いまや米国抜きの世界経済の実現は不可能ではあるが、少なくとも国内の経済施策はわが国独自の経済理論で展開するべきだ。米国流の経済学であっても、需要供給曲線などは古典的なアイデアだし、どこの国でも同じだ、と言う見方もあろう。しかし、経済モデルの諸パラメータの操作だけではなじまない経済モデルもあるはずだ。日本の商習慣を冷徹な先端的米国流経済理論に乗らないから、日本社会を変えるべきだと言う主張も、一面正しいが、全てがそうでもあるまい。
 かつて、エリートとは、外国語(古くはドイツ語、今英語)に精通していて、外国の書物を訳して国内に刊行できるものを指したようだ。現在も若干はあるだろうが、10数年前までは、外国語の書籍を翻訳すれば大学の教授になれたという。このように、基本が外国を向いている。外国(他人)の構築した理論をトレースすることだけに汲々とせず、何故、日本に軸足を置いて、しっかり自分たちの頭で考えないのだろう。
今の政治や行政の無策を見ていると、利口な人がいろいろと考えているのだろうが、足を引っ張り合っているので、いい案が仲々出てこないのだ、ということだろうと考える人もいよう。しかし、実は、現実はそうではなく、自分たちで考えようとしても、考えられないのだと思う。人のことは言えないが。
テレビや新聞に識者が述べる意見のうち、果たしてどれだけ全体を見渡して、いまや日本はどの道を進むべきかという基本認識をもっている人がいるだろう。(なお、ここでは、政治経済的な思考について言っているのであり、物理化学等々の優れた日本の知恵については対象としていない。)
潜在的な能力のある人は、是非とも日本独自の政治経済思考の質を高め、この難局を乗り越えていく力強い日本に導いていって欲しい。

2009年6月23日火曜日

中心市街地活性化考

中心市街地の活性化が善であるとは、おそらく国民の誰もが否定しないことだろう。
それにも係わらず、中心市街地から人が減り続け、閑散としているのは何故だろう。
活性化が善だと言っている人は中心市街地に自ら出かけているのか?多分そうでは無いだろう。多くの人が中心市街地は活性化するのが良いと思い、ことあるごとに中心市街地に足を運んでいるのなら、人影が少ないはずは無い。
つまり、人々は中心市街地に行かないのだ。ならば、中心市街地の活性化など必要ないのでは?
たぶん必要が無いのだろう。必要が無いにも係わらず、官民そろって声高に活性化を叫んでいるのだろう。カラー舗装や公園、アーケードなどの整備に税金を投じているが、そこには人がいない。
もし、人々が中心市街地などは不要だと明言するのなら、こうした無駄な税金は投入されなくなる。中心市街地に投資する数十億円から数百億円の税金をその町に住む高齢者や失業者に割り当てたら、人々の生活はもう少し楽になるかもしれない。
こうしたことを冷静に受け止められる市民や行政や政治家がいないのは何故だろう。実は多くの人々は気づいているのだ。わが町の中心市街地に税金を投資したところで、日常生活に必要な食料品などが安くなる訳でもない。賑わいといっても、中心市街地だけに雇用の場があるのでもないので、平日は中心市街地の商店やわずかな業務施設に働く人たちが行き交うだけである。休日は、郊外のイオンなどのショッピングモールで家族で楽しく便利に買い物をする。または、ネットでショッピングをしたりこのブログなどを読んでいる。だから、中心市街地には人は集まるはずがない。
よく本末転倒な議論として、郊外にSCが立地するのはけしからんとの主張があるが、その主張をしている当の中心市街地の商店街の店主がSCで楽しんで買い物をしている。多くの市民も、「郊外にSCが乱立するなんてホントに良くないわ」といいながら、競争によって安くなった日常品をありがたく購入している。実は、良くないと言っている当の本人は、何が良くないのか分からないというのが本音だと思う。実際、その人に何故郊外SCの立地が良くないのか、思う理由を聞いてみるがよい。多分、中心市街地の商店街が疲弊するからとステレオタイプな回答をするであろう。でも、私はイオンで間に合ってますから、と付け加えることは忘れないと思うけど。
これからの都市計画は、中心市街地が無くても活性化(従来の意味での活性化ではない)する都市づくりが求められるだろうね。

2009年6月22日月曜日

自動車が売れない訳

自動車が売れなくなったと、自動車メーカーが嘆いている。
やれ若者が乗らなくなったからとか、やれガソリンが高いからとか、まことしやかな理由を挙げている。

果たしてそんな理由がもとで自動車が売れなくなったのだろうか?
ところで、今日この頃のTVの自動車のCMを見ると、いまだにデザインや走行性の軽快さや燃費の良さを強調している。自動車が発明されてから100年ほどの歴史の中で、走行性能については十分に技術革新を図ってきたではないか。燃費もまだまだ改善の余地はあるものの、大声で強調するほどの改善がなされているのではない。デザインについても、具現の可能性が限られている範囲内でのバリエーションの域を超えていない。つまり、自動車メーカーは、いまだに自動車は内燃機関の改善に日夜取り組んでいることを主張するのがPRポイントだと考えたり、自動車が相変わらず贅沢品の延長だったり、自己実現のツールだと見なしているふしがあり、かなり昔のコンセプトに陥ったままのようだ。小刻みなモデルチェンジや古めかしい価値観での自動車づくりに、国民はあきあきしているのではないか。それが自動車が売れない本当の原因だと思う。
凡そ、法律で決められた安全機構を備え、法定の車線幅を法定の速度で走るとの制約条件下で生み出される自動車にそんなにバリエーションがあるはずがない。国民が求めているのは、いかに安全に走ったり停まったりできる自動車にしてくれるかということ。素朴に考えると、自動車とは前はある程度見えるが、車側や後部はまったく見えないもので、数百キロもある鉄の塊がわずかなアクセルとハンドルで動き出してしまう危険きわまりの無い物体。車庫入れや縦列といった行為は、教習所で習うものの、通常は慣れで行っているが、一度もヒヤリとしたことが無い人などいないだろう。こうした自動車を安全に動かす基本部分に何らかの工夫が目に見える形で施されてきただろうか。それも大衆車に対して。自動車の運転は緊張感なくしてはできない。こんなストレスが溜まるものに、日々楽しいものが身近にあふれている時代の若者が無理をして乗ると考える方がそもそもおかしい。
では、こうしたことへの対応は、技術的には難しいのだろうか?
ITSが唱道されてから優に10年は経つが、一部の高級車をのぞいてあまた走る自動車に走行の安全に関するITSの機能は搭載されていない。しかし、いくつかの技術は実用域にあるのだから、走行性や燃費ばかりに力をいれていずに、こうした最も基本的な部分の改善を進めれば、自動車は今よりは売れると思う。
そんなことをしたら、コストが高くつき、元も子もないではないかと言う声があろう。しかし、年間の自動車事故の死者は減ったとは言え、決して少ない数ではない。また、化石燃料の埋蔵量も多くは無い。そんな視点に立てば、高くても買える人だけにして、総台数を減らすことも必要ではないか。情報化は益々伸張するであろうから、人の移動需要は相対的に減る。かつてはビジネスのために時間を争って移動したが、いまやビジネスは情報システムで済む。移動をさほど急がないのなら、バスや電車でよいだろう。その方が資源節約にもなる。
これまで自動車産業はわが国だけでなく、他国においても主要産業であった。しかし、従来の価値観のままで自動車をつくり続けていくなら、早晩限界がくるだろう。自動車は既にインフラ化していると理解し、実用機能、安全機能に特化し、パーツも共通化し、スクラップ&ビルトを極力排した製品とするなら、今後も主要な産業として需要されていくことであろう。勿論、今以上に群雄割拠があるだろうが。
このテーマについても、今後、ウォッチしていく。

2009年6月19日金曜日

googleはタマネギの皮をむきはじめている

タマネギを剥くとは、もののたとえだが、タマネギをむいていくと、最後に何も残らない。タマネギとは解き明かすべき謎の塊だとたとえると、謎を解いていき、最後の見つかるだろうと期待する謎の大元はどこにも無いのがタマネギの皮むきの結果。タマネギの皮一枚一枚が謎であるのであって、いわばマトリョーシャみたいなものかも知れない。
で、これがgoogleとどう関係があるかって?

googleが何を目指しているかはっきりとはしないが、googleがやってきたことや、やり始めていることを見ると、人知の全てを可能な限り情報化して検索の対象としてしまおうということ。これは、世界最大のEncyclopediaを構築しているのであって、凡そ人間が認知できる情報が丸ごと入っていると考えられる。そして、その人知が時と空間を超え、googleの賢い検索機能により瞬時にゲットできるのだ。

僅か数年前まで、物事を調べようとすると、結構時間を要したし、調べ上げたという満足感は得られなかった。でも、いまではgoogleでほとんどの情報を調べ上げることができる。
こう言うと、ネットに入れられていない情報は調べられないじゃないかとか、本当にオイシイ情報はネットなんかには無いよとか、活きた情報はネットで得られるはずが無いなどとの素朴な疑問を呈する輩がいる。
パレートの理論ではないが、2割にあたる情報で全体の枢要な傾向や本質が分かれば、人間生活の殆どが充足する。3σ(標準偏差の3倍)もずれたところの極端な意見や情報は聞くに値するが、それが無くても、特段日常生活でこまることが無いし、残りの部分は類推や思考により補完するのでなければ人間の良さが活かせない。もっとも、うんと貴重な発見などは、知的財産として保護もせずにはネットに流せないよね。そんな情報はむしろ流すべきではないだろう。

なんだ、googleのやっていることはとても良いことではないか、何が問題なんだ、という声が聞こえる。

違う観点から見てみる。例えば、人間が成長するに合わせて獲得していくべき情報は年齢に適うかたちで様々あるだろうし、いつかは行ってみたという憧れの場所だったり、世界には自分が見たこともない民族がいるのでは、なんていう憧れを持っている人もいるだろう。でも、一度ググれば、たちどころに答えはみつかっちゃう。つまり、人生の秘密や憧れなんかというタマネギは、googleで剥かれしまうと、後には何も残らない。
そうすると、野を越え、山を越えて探し求める旅なんかは、少し少なくなるかもしれない。わざわざ飛行機に乗って外国に行かなくてもいいやという人も少し増えるかもしれない。もう世の中には秘密なんかないんだ、と落胆する若者もいるかもしれない。

じゃあ、googleがやろうとしていることは、人類にとって良くない事じゃないのか、と声を荒げる人もでてくるだろう。でもね、そうしたこともあるかもしれないけど、上で言ったように、そんなことは僅かなことであって、太宗はこれまで以上に世界が広がるメリットを享受できると思うよ。

これについては、過渡期だし、まだまだウォッチと考察が必要だね。

2009年6月18日木曜日

コンパクトシティとは

コンパクトシティについてのステレオタイプな議論が多い。
CO2削減、資源枯渇といった地球資源がこのままではもうもたないから、省エネ生活をして少しでも地球を延命、人類を延命させようと言うのが目指すゴールである。
そうするとコンパクトシティは、目指すゴールまで遠いこと、遠いこと。削減すべきCO2や枯渇するだろう資源はデジタルに示せるのだから、通常、その数値目標に向かって、これだけ削減しようね、と示していくものだろう。
で、コンパクトシティをするとCO2がどれだけ削減されるのか、はっきりしない。大学なんかがいろいろ計算しているが、コンパクトシティにより10%に満たない程度の削減効果しか予測されていない。当たり前と言えば、当たり前だが。
その削減率をコンパクトシティ構築代金で割ると、1円あたりのCO2削減率も僅かだ。CO2を削減しなければならないことは、人類にとって、背は腹に変えられない的な課題だから、マネータームで云々するのは禁じ手だとしても、何もそこまでやらなくたって、現在を生き抜くための課題だって山積なのに・・、とのぼやきも聞こえる。
それに、脳天気にコンパクトシティと鳥瞰的に言っているが、人はしゃれで居住地を決定しているのではないから、「これこれ、そこに住むと、CO2が増えますよ。移住してください。」なんて言われて、そうですか、それでは地価の高い都心に移り住みましょうか。ところで、我が家は4人家族なんですが、今住んでいる郊外の100㎡と同じ面積の住宅が与えられるんでしょうな。まさか、あなた経済が分かってない??そんなはず、あるわけ無いじゃないですか。庭もありませんし、4階部分の60㎡のマンションですよ。車庫はありません。 的な現実があるのに、コンパクトシティを標榜している国や自治体は、そこまでのツールを示して、コンパクトシティの実現を誘導してはいない。地域づくり、町おこしだなんていって、この数十年、地域一丸となって育ててきた郊外の街が、あなた、そこは限界集落に近い地区ですよ。都心に引っ越してください。なんて、そんな都市政策って、ありますか?つまり、現時点のコンパクトシティ議論は、工学的には意味があるが、社会経済・文化歴史的な観点からは、あまりにも陳腐である、詰めが甘いと感じる。

2009年6月16日火曜日

PDA

いまさらPDAでもないでしょう。と、言われそうだが、PDAを追いかける。
実は、携帯電話でアプリが勝手につくれるのなら不要。auなんだが、auは勝手につくるサービスはしていない。そうすると、やはり、アンドロイドに期待ですか・・。