2017年5月20日土曜日

法の本質

 西欧などのキリスト教国では、神は絶対であり、人の上に立つ神の最終承認がなければ法さえも機能しないと考えられている。つまり、人が作った法に神の承認がないと、法として意義をもたないと言うのである。
 これは一つの考え方のモデルであるので、それ自体は民族毎に納得が行く方法で捉えればなんらケチをつけるべきものではない。ただ、事の始まりが約4000年前のヘブライのモーゼあたりから始まっているというのは、いささか難がありそうだ。
 人類にちかい生物が地球に出現したのが諸説あるものの約200万年前で、現在の人類が約20万年前から始まっていると言われる。激しい生存競争の中で現在も生き残っている生物は、それなりの生存のための知恵を獲得できたことによる結果だというのは、現在も絶滅している他の生物を見れば、素直に理解ができる。そうすると、約200万年前とまでは言わなくても、少なくとも約20万年前をスタートとして人類種族の歴史を捉えても間違いはないだろう。他の生物に比べ高い知能をもった人類が生き残れたのは、知能にもとづく「他者との関係性」を適切に保つ心の営みの結果であろう。この関係性こそが「神」の本質であり、人と人の関係のルール化なのである。この神がいたからこそ、言葉を持たなくても20万年もの時間の中で滅ぶこと無く生存競争に打ち勝つことができたのである。人類の歴史の約2%の長さしかない約4000年前にヘブライの人々がそのことを初めて言葉で体系的にストーリー化し聖書の形にまとめたということだろう。
 そこまでの20万年の間ではこの関係性を集団に与えたのは、あるときは部族の長であったかもしれない。いずれにしてもその人間集団の知者であったことは間違いない。その知者こそが、その集団で突き抜けるほどの知恵をもつものこそが神と崇められたのかもしれない。だが、現代においてもその事情は変わらないのではないか。わずか4000年前のヘブライのものだけが真の神ということではなく、地球上のそれぞれの種族がその種族の関係性を維持できる知者やそれを文字化した法であって何らの不思議は無い。
 法が「関係」であることは、モンテスキューが「法の精神」において定義付けている。一国の民を方向づける憲法もまた、内国と外国の関係性の宣言文なのである。日本の第9条の戦争法規は、国民に対して日本は他国に戦争をしかけないと宣言しているのである。それにも関わらず、憲法の本質を理解せず、他国と戦争をしないために必要な下位法を制定したり、国として必要な外交努力や必要な国内教育・研究を行っていない。今の9条が言っているのは、私達日本人はかつてのように武力をもって戦争をしません。戦争をしないようにあらゆる努力をします。ということだ。戦争とは他国とおこなうものだから、戦争をしないとは、他国がその気にならないように積極的に働きかけることである。それは他国にODA支援するだけではなく、そもそも戦争を戦争はしてはいけないのだよと教えたり、諭したりすることも含まれているだろう。そうした努力は国民が目に見える形では行われていない。むしろ戦争法をしたくないという国民の民意を無視した政治を展開している。
 この9条に防衛軍などを明示すれば、日本は他国と戦争をすると宣言することになる。他国との関係が戦争という状態を招くかもしれないと国民に宣言することになる。そのための下位法は自衛隊法や共謀罪を問う法として充実を図っている。経験としてもこちらの方が豊富だ。ただ、仮に他国として戦争を始めようとしても、現在の戦争で必要な経験が第二次世界大戦の頃のもので足りるわけではないだろうが。

 法は、神というその民族の知者たちがその時代のその民族の知を集結したものとしてあらわされたものである。憲法を制定した知者は役割を終えれば解散してしまって何ら不都合が無い。やがて新たな神が必要となれば、その民族の最高の知恵をもつものたちが見直せばよい。そしてそれが民族の生き方を律する。つまり、法は民族によって民族に与えられるものであり、民族の神が与えたものとみなせる。
 そう考えると、今の米国は、神の代理と位置づける大統領は、とても米国の知を代表しているとは見えないので、最早、生存競争に打ち勝てない途をたどっているかもしれない。人類の歴史的事実がそれを示唆していよう。対岸の火事では無いのが日本だということも明瞭にわかるのが寂しいこの頃である。

                  完

2017年4月29日土曜日

部下が上司に相談しないワケ -いまやメンターは上司ではない-

 ある日曜日の午後、あるネット記事を読んでいると、ふとあることを想起した。

 何であいつらはオレに相談に来ないんだ! 
 と、お怒りのアナタ、何年待っても部下は相談に来ませんよ。むしろ、部下の育成があなたの本務なら、あなたが得意のコミュニケーションで成績を上げようと目論んでいるうちに、あなた自身に賞味期限がやってきますよ。必ず。
 何故でしょう?
 何事にも原因があります。部下があなたを嫌っているなどという次元ではないのです。そういうウエットな時代は過ぎ去りました。すでにそういった感覚は勘違いの時代に入っているのです。
 もう少し物事を正確に見てみましょう。
 まずあなたの心の中を拝見しましょう。あなたが定年間近の高齢社員である場合、会社のボス(もちろんあなたより若い部長)は、あなたにこういうはずです。
“シニアであるAさんの豊富なご経験をもとに、今時の若者が悩んでいる仕事のイロハの相談に乗ってやってください。” 
 その言葉を真に受けたあなたは、若者が相談にやってくるのを待ち続けます。
 ある時には、愛想のいい好々爺の面持ちで若者たちを見つめ、“仕事で何か分からないことがあったら、気軽に声をかけてな。”と。またあるときは、威厳に満ちた面持ちで、“何だか非効率にやっているようだが、分からないことがあったら、いつでも聞いてください。”と。
 しかしどんな面持ちで、どんな声音で接しようと、若者は一向に相談に来ません。あなたはそれがあなたの仕事なので、毎日毎日悶々と若者を待ちます。時には、ついつい相談もされないのに、“そういう場合はねえ、こうするのがセオリーだよ。私の経験では、・・・。”などと、言ってしまうこともあります。
 若者は苦笑いをしながら、“勉強になります。ありがとうございました。”と殊勝なことをいう部下もいるでしょう。が、たいていは、回転椅子をそっと回して自席のパソコンに静かに向かうべく、足をこきざみに動かします。

 次いで、このときの若い部下の心の中をのぞいてみましょう。
 “ここが弱いな。これじゃあ、明日、客からつっこまれたらボロがでるな。ちょっとヤツに聞いてみるか。ねぇ、山ちゃん・・・。ん!やべぇ~。おじさんが立ち上がったよ。まさかこっちにやってくるんじゃないだろうな。この忙しい時におつきあいをしているヒマはないので・・・。”一方、声を掛けられた山ちゃんも“なに?”とは答えたが、おじさんの姿を視界の端で認識するなり、顔は自席のPCにもどっています。
 
 そうなんです。
 A氏と若い部下の接点は、どこにもないのです。確かに外面的には若い部下は仕事上のあることに悩んでいて、A氏は若い部下の疑問に応えられる能力を持っています。だったら、若い部下はA氏に聞けば両者立ちどころにマッチングしそうな気がしますが、実は、そこはそうではないんです。
 例えて言えば、A氏はスカラー量で静止画、若者はベクトル量で動画、というなんだか水と油の状態にあります。つまり、二次元平面では決してマッチングしないんですね。まあ一部かすることはあるでしょうが。
 と、むちゃくちゃな例えはおいとくとして、両者の決定的な違いは、時間感覚の違いによるものと思います。
 実際、A氏が若い部下と同じ年代のころの情報処理量と現在の若者の情報処理量の違いは数倍なんていうものではありません。若い部下は、子供頃から大量の情報処理を普通にこなしてきたので、社会人となった現在も同じ作法で仕事をしているでしょう。
 なので、一見、若い部下とA氏の仕事の内容は経験の差に裏打ちされた乗り越えようのない差異に見えます。が、実際にはそんなことはなく、両者とも同じ情報量か、むしろ若者の方が多いぐらいの状況で仕事をしています。まあ、経験の差があるので、A氏の方がポイントを抑えた情報の選択をしているかもしれませんが、若い部下はA氏の数倍の類似情報を社内サーバーやネット上で探してきます。近頃の若者は英語も達者なので、英文資料にもそつなく目をとおすはずです。
 かつて情報化が未発達であった頃は、役職の高い者の方が質の高い情報をもっていた時代もありました。でも、いまの時代には社長も若い部下も同じ情報量であるケースが多くなっています。いうまでもなく、企業の経営情報などはアクセス制限がありますが、それでも上場企業では公表したIR情報を読み解けるなら、自社の経営状態の健全性は社長と同じ程度に把握できます。
 話をもどしますと、A氏が若い部下と同じ時間感覚にいない以上、両者は仕事面で永久にコミュニケーションをとることはありません。A氏が待ち続けてやがて定年の時を迎えても、若い部下は相談にこないだけでなく、すでにA氏の上司となってしまっているでしょう。
 では、若い部下は誰にも相談したくないのでしょうか?実際、相談していないのでしょうか?違います。若い部下は、すでに学生のころからいろいろな人に相談しています。他人に全く相談せずに仕事だけでなく判断をともなう人生のよしなしごとを乗り切れる人は希少価値でしょう。“じゃあなんでオレに相談にこないんじゃ!!”と怒るA氏の声も聞こえそうですが、A氏やA氏に類する人には若い部下たちは何も尋ねないんです。道さえも・・・。
つまり、若い部下たちは、メール、SNSLINEFacebookTwitterなどのデバイスで日本国中、さらには世界の人たちに聞いているんです。お互いがメンターでありメンティーなのです。もっと手軽には検索サイトやブログもあります。こうしたサイトの質問事項をみると、仕事の内容についての質問も結構たくさんあります。

 おじさんであるA氏はその世界に住んでいないので、そもそもプロトコルがないんです。
 若者が生の声でA氏に尋ねたら、少なくとも20分は消費しますよね。でも、検索や情報システムを使えば、即座にヒントをえることができます。何も、手取り足取り教えてもらわねば分からないわけではないので、ヒントだけでも十分に必要な資料作成や情報整理はできます。
 “でも、”とA氏のいぶかりが聞こえそうです。“やっぱり仕事には難易度があり、経験がなければすぐには理解できないんじゃないか。それは本当だな。”などと。
 ここで、仕事の難易度について考えてみましょう。ごく一般の職業において、大学教授でもないと問題解決できない仕事なんて、自社の仕事の何パーセントもないというのが実際ではありませんか?
 大抵は少し訓練をすれば、ほとんどの人はできるように人間社会の仕事は成り立っているのです。そういう状況にあって、大の大人がそれも大学出の大人が、手とり足とり教わらなければならないことなどほとんど無いのが実際の社会でしょう。例えば、交渉相手へのプレゼンテーションでは、小学生でもわかる内容にするのがよいという人もいます。
 じゃあなんで、年齢によって給料がちがったり、役職がちがったりするんだ。という声が聞こえます。われわれは架空の世界に住んでいるのではなく、現実の世界に住んでいるので、仮に能力を数値化して数値の高い人だけに多くの給料や高い役職を与える社会にすれば、動物である人間の社会はモラルハザードをまねき混乱を来して最早、成り立たなくなってしまうでしょう。だから、口では理想的なことを言っても、そのとおりにしていないことなど山のようにあります。理想とはいくつもの条件を捨象しているので、理想=合理的という構図ではありません。理想とは、言ってしまえばある意味わがままな状況とも言えます。つまり、“わがままを言わせてもらうと”といった程度のことだと理解するのが現実的かもしれません。
 
 つまり、実社会の一般的な仕事とは分野をとわず共通要素があるということです。その共通要素が毎度毎度誰かに教えを請わなければやり遂げられないようなものなら、人間社会はとうの昔に消滅しているでしょう。
 会社は社会の縮図なので、一握りの集団が牛耳っている会社と同じように、社会も世界も一握りの集団が支配しているのは、ある意味当然のことでしょう。もちろん、その一握りの集団だって天才だけの集まりというわけではありませんが、何かの能力が平均より上回っていることは確かでしょう。
 彼ら以外はずば抜けた能力を求められないのかというと、そういうわけではありませんが、そうした能力がなくてもなんとかやっていけることは確かです。むしろ、一握りの集団と同じように能力を発揮すると、彼らからパージされることは確かです。集団をマネジメントする力学において、船頭は二人もいらないからです。
 寄り道しましたが、社会を生きていくのにアベレージにある若者が取り立てて先達に教えを乞うということ自体が原理原則でみると、合理的ではないのです。でも、実際、若い人が先輩にいろいろ聞いて、ためになったと言ってんじゃん、という声も聞こえます。もちろんそうした風景はありますが、そこで若者が得た満足感は、他者との人間的なコミュニケーションによって、人間的な心の会話があったことに満足感を得たということであり、知識として仕事面に役立ったかというと、その効果は少ないと言うのが真実でしょう。
 実は、先達だけが勘違いをしているのではありません。若者も勘違いをしているのです。  もし若者が勘違いをしていなければ、数年後に先達になったときに勘違いをする確率は低いとおもいます。では、何を勘違いをしているのでしょう。
 基本的には、知識の伝達や習得の方法についてです。
 いま社会で問われているのは、企業の競争力を高めるためには、学業を終了してきた若者の経験度をいち早く高めることが効果があるので、若者をどう教育するか、ということです。ここで若者と言われる人々とは、長きの教育年限を経て成人した人たちです。ある意味、受験や日々のテストを経て、知識習得には最も長けた年齢層と言えます。その人たちが企業に就職した途端、君たちは全く何もわかっていない、先輩からよく教えてもらうのだ、と社長か年長の誰かから宣告されます。若者たちもしおらしく、オレたち何にもわかってないよな、一生懸命頑張って早く一人前になりたい、などと熱く語ったりします。
 でも、ここがすでに勘違いなのです。社会に20年も生きていて何にもわかっていないって、どういうことでしょう。もし本当にそうなら、学校で習ったことが社会生活を送っていくために、また会社で仕事をするために全く役立たなかったら、その国の教育はおかしいと言わざるを得ないでしょう。確かに、日本の英語教育は、まったく実際の英語会話に役立たないので、その点では正しいでしょう。
 しかし、会社で毎日やっていること、つまり、普通の仕事とは、情報の整理であり、文章を書いたり計算をしたり、たまには絵をかいたり、他者と会話し物事を決めていく、というのがほとんどといっていいでしょう。
 なんだ、オレはこの金型マシンをうまく使えるようになるのは、先輩から1年はかかるといわれてるんだぞ、情報の整理だけで仕事ができると思うなよ。という声も聞こえてきそうです。ですが、金型のマシンの操作だって、情報処理ができなければ、いつまでたってもなんのこっちゃではありませんか。
 つまり、情報処理の方法について、学校では延々と成人するまでやっているわけです。実社会の仕事は、その処理能力を基本につくられていますので、ある意味、金型マシンの操作習得と同じように、何度も何度も繰り返しやってみてできるようになるのです。学校でテストを受ける前に、算数の計算ドリルをやるのは、仕組みを理解したとしても時間をかけずにソラで問題がとけるように訓練をしているだけ。そのことによって、人間という動物は物事を理解し体にしみこませるには繰り返しが必要なんだなということを体得しているわけです。
 で、会社の仕事も基本は同じです。決定的に違うことは、会社では学生の時のように時間を好きなだけかけられないということです。それは、時間はすべて金額換算されているからです。のんびりやれば、会社の処理能力がおち、収益はあがりませんね。また、実戦の場で、訓練と称して失敗するのははばかられるということです。お客さんも商売をしているので、いやあ、実はあれはマジにやってなかったんで、実は間違ってまして・・、なんてやっていたら社会は信用をベースに回っているので、最早、いたるところで物事の動きがおかしくなるでしょう。他の国にそうした実例をみてとることができるでしょう。
でも、日本国では、みんながそんなふうに無責任な社会にしたくないんですね。だから、学生風の感覚で仕事をやっていると、即、退場となるわけです。
 オイオイ、なんで即、退場だよ。教えてくれったっていいじゃん、親切にさ。という声が聞こえます。
 これについても勘違いしている若者、または高齢者もいるようですが、会社は競争社会が大前提です。給料という報酬がある以上、つまり収益をあげることが前提となっている以上、そんな人間集団が平等であるのは合理的ではありません。
 もちろん、経営者は会社をつぶしたくないので、皆さんは同じスタート地点にたっている、というようなことを入社式でいうかもしれません。しかし、もしそれが本当なら、その会社の組織デザインはかなり危なかしいものとなるでしょう。組織を力強く運営していくためには、将来の幹部候補生と目せるような人材もとらなければなりませんし、長い会社生活(といっても勝負は10年程度で決まるでしょうが)のなかでは時として化ける人もいるので、交代要員も含めて複数人の幹部候補生を取らなければなりません。それは一握りで、のこりはきちんと役割をこなせる能力をもてればよいのです。いわゆる、20:80のパレート最適の実例ですね。
 中には勘違いをして、どうせオレは幹部候補ではないので、こんな会社やめてやる、と飛び出していく輩もいますが、どこにいったって人間社会である以上、同じロジックでうごいていますので、隣の芝生は青かったで状況です。中途下車はよほどの畑違いでもない限り、同業者転職では、通常は状況が悪化していきます。
 学校でさえも耐えられなくて行かなくなる人は、会社のような競争社会が基本の環境では生きていくのがつらいでしょう。だからといって、自営業でやるんだというほどに、人間社会は優しくないので、社会全体がうつ病でなやみたくなければ、人間社会の真実をきちんと家庭や学校教育の中で教えていくことが重要でしょう。
 真実を伝えるにも隠すにも、まず真実がどんなものなのかを知らなければはじまりません。それこそが、人間の知恵といわれるものでしょう。精神面のマネジメントについては、日本は他国に比べてさほど先端をいっているようには見えません。“忖度”、などという意味不明な用語で社会を動かそうとしている先史的な状況では、先行きがみえませんし、力を得たものだけが得をする非合理的な社会であり続けるでしょう。
 かつては、暴力や怒号などで他者を抑えつけることが日常のなかにも見えていましたが、いまではそうした赤裸々な暴力はわずかなものとなりました。それだけに、ひとたび暴力的な他者に遭遇するとあっさり支配されてしまう人が増えているかもしれません。
 いずれにしても、いまどきの若者は知識の習得方法はそなわっていることを前提として採用されているので、平均的な業務知識は平均的な習熟期間で習得できます。しかし、会社は促成栽培をしたい。
 促成栽培は可能でしょうか?ご周知のとおりですが、会社の仕事の知識とは、書かれたものを頭に叩き込むだけではありません。モノを売る商売などでは、結局、売る相手の信頼を得ることがその会社で仕事ができると評価されます。ですから、そのためには要は相手から人間的に信頼されることであることが重要なので、教科書的な知識はむしろそのままの形では役に立ちませんし、信頼を損ねることにもつながります。教科書の知識を実際の実務に合わせて発揮させるには、それなりの情報処理能力が必要でしょう。こうしたことは一般に試行錯誤の経験によって取得しているので、先輩が後輩に伝授するという口伝という形を取らざるを得ないのですが、その習得効率はどんなものでしょうか。
 もし、口伝で人が知識を効率よく習得できるのであれば、社会のさまざまな場面でそうした光景が見られるでしょう。しかし、人間の能力からは口伝で技術を習得するのは困難と言えましょう。口伝ではそのストーリーが成り立つ条件しか伝えられないが、実際の仕事はケースによってさまざまな解の可能性があるからです。先輩がうまくいった方法で後輩がうまくいくなら、若者も先達に積極的に相談するでしょう。
 しかし、そうではないので、相談しないのです。つまり、一定の学力をもった若者が実際に得心をもって理解できるような知識獲得方法でなければ、その個人の成長もありません。そのためには、若者が自分の知識獲得パターンにフィットするする方法で自分のアタマにインプットするしかありません。先達のアドバイスは役には立つでしょうが、あふれるような情報処理の処理速度においては、先達のアドバイスのスピードは牛なみかもしれません。
 遅いだけで終わればいいのですが、ついでに性格批判などされた日には、感情の制御が十分に訓練されていない若者は心が千々に乱れて仕事の効率が著しく低下するでしょう。百害あって一利なしですね。
 それと、こうした知識は生活経験にも似ていて、どんなに知識として理解していても、実際に体験しないと得心がいかないというたぐいのものでしょう。したがって、促成栽培的に朝から晩まで講義をしたりグループディスカッションをしたりしても、吸収できるものはわずかです。また、人間関係の知識なら、すでに成人に達するまでに一通り経験しているので、コミュニケーション術の学習などいって改めて勉強する必要はありません。
 重要なことは、仕事には損得などが絡んでいるので、一般的なコミュニケーションルールで処理できるわけではないということです。仕事上のコミュニケーションで失敗したとか成功したというのは、結局、交渉相手が自社と契約をむすんだかどうかに帰着しますので、相手から優しい声を掛けられたかどかがバロメータにならないということです。もちろん銀座で飲みに行くこともさしたる効果は無いとみてよいでしょう。家族ぐるみの付き合いとかも。ヘタをするとお互いに縛りあり、仕事の行方次第では不幸な結末を迎えることもままあります。
 また、そもそもの人間の能力からみて、精神年齢にも似た経験年齢を高めるとしても、平均的なIQの人は限界があるでしょう。人間とはそういう動物だからです。

 A氏は定年間近の人ですが、若い上司だって同じことです。例えば、30台の上司は、すでにSNSなどを活用した年代であり、上司になるまでに彼がどのように仕事のスキルを獲得してきたかを思い起こすと、自分がその当時に上司に何かを聞きに行ったかを思い出せば、自明ではないでしょうか。
 まあ、自分がやらないことは人はやらないというのは、均質な日本社会では鉄則ルールであることをお忘れなく。

 といったことを日曜日の午後のひとときに想起したのだが、まあそうはいっても、やはりそんなに簡単には割り切れないので、日本だけでなく資本主義経済の国に共通の事柄として、若い成人に対する効果的な教育の仕方をどうすべきかという悩みは尽きないだろう。

 ふと気づくと、時は三時半、コーヒーを入れないと叱られるな。うぅ、小心もの・・。


2017年4月14日金曜日

いまこそ日本の立ち位置をかえるとき

 北朝鮮の崩壊が現実味を帯びてきている。
 ちまたのニュースやコラムなどによれば、崩壊のシナリオは米国のトランプ大統領が描いているとのことだ。
 こんなシナリオを描かざるを得ない一面には、われわれの母なる地球は広いけれど、核爆弾などで火遊びをするほどの広さはないのだと言うことだろう。
 実際、全くそのとおりで、チェルノブイリや福島県の現状を見れば火を見るより明らかである。血迷った核弾頭が日本海側の原子力発電所や中国、韓国の原子力発電所に命中すれば、またぞろ地球の陸地の利用面積が減ることになる。
 私の言いたいことの主旨はよくわかる。だが、トランプ大統領のやろうとしていることに不気味さを感じるという人たちも、一定数いるだろう。
 よくある反応は、「北朝鮮が核弾頭ミサイルを飛ばそうと、それは北朝鮮の勝手であって、アメリカの大統領が口出ししたり、手出ししたりすることじゃないよ。そんなことをされたらおちおち枕を高くして寝てもいられない。」というものである。
 こういった意見をもつ人々は、そんなに少ない数ではない。事実、テロ組織のISやそれに近いかつてのオウム真理教などの組織の活動にも賛同する人々は厳然としている。
 どちらの立場に立つのかによって、人間という動物は、両方を偏らずに考えたり賛同したりする能力は持ち合わせていないようだ。希望をもったり、努力する能力はあるので、第二次世界対戦後はみんなで反省して明るい世界をつくろうと努力してきた。でも、ロシアのようにどうしてもみんなと楽しくできないような民族もいて、結局、またぞろ元の木阿弥にかえろうという兆候がでてきている。
 私は、いま、皮肉を含んだ書き方をしている。
 が、現実の世界が皮肉の段階に到達しているのだから仕方がない。
 つまり、いま起こっていることは、私の目にはこのように見えるわけなのだが、実際に起こっているのは実は全ての地球人が自分たちの明日に希望をもち、努力しようとしている結果が招いている事態だということだ。
 まわりくどい書き方をしているが、それが事実なのだ。
 日本を含む西側の安定した社会を築いてきた国の人々は、これまでの繁栄を一層高めていこうとして、移民というフリーライダーを拒否している。他方、これまで悪政に苛まれてきた国の人々は、安定した国を創り出そうとまずは一旦日々糧を稼ぐために西側に移住しようとしている。
 穿った見方をしているのとは少し違う。
 人間という動物は物事を考える能力をもつが、やはり基本は他の動物と同様、有限の生命の中で食物を摂取して安住しなければ生きながらえない以上、立場や環境の違いによってこうした事態に至るのは至極当然なのであり、「利他性」や「寛容性の発揮」などと自分はしないけど、あなたお願い的なことにはならないのだなあと、静かに落胆しているのが正確なところだ。
 それで、結局北朝鮮が崩壊すると平和で安定した世界が訪れるのか、というとそれも本当ではないことは歴史が物語っている。ただ、とても重要なことは、北朝鮮の気の向くままに核弾頭をつけたミサイルが発射されれば、確実にわれわれの住む惑星地球はダメージを受け、核の汚染は数百年の長きにわたりの人類を汚染し続けるだろうということである。
 チェルノブイリと福島では、それを既にやってしまっている。またぞろ日本では原子力発電所の稼働が許可されているが、人類の生存に対する負債を返したわけではない。そうした意識をもつことを積極的にしないのが日本人だが、世界民の一端を担う国民としては、真面目に取り組んでいかなければ他の国民に非礼にあたるのではないだろうか。
 戦後70年を迎え、戦勝国アメリカも日本に対してある程度寛容さを示してくれているのだから、戦前の日本に戻るのだとか、教育勅語がどうしたとか、無神経なことを言っていないで、世界がぎすぎすしないような手立てについて日本はこう考え、こう行動するといったことを表明していくのが正しい姿なのではないか。つまり、いまこそ日本の立ち位置をかえるのに最適な時期もなかろう。進んでかえよう。
 と、思うこのごろであった。      完