2009年8月7日金曜日

経済学考3  081002 

宇沢氏の論文に触発された。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしているという。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因を時間の関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。それとも純粋技術的に動学的な扱いは難しいということを素直に言っているだけなのか。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、
富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。少なくとも市場原理だけでは富の再配分は見えざる手では行われない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者と思われる。人間の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学では何もできないではないかと政策学として落第の烙印を押されるだけだ。その種のことなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本と主張しながら、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないと指摘するのは主張に矛盾を孕んでいる。
低所得である前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者とフリーライドする後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実質は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分のフィードバックに工夫を持たせることが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある時期に上記の前者にあったものが、やがて後者になるとしても、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要であるにも係わらず備わっていないものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えるのではないか。

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