2009年8月7日金曜日

経済学考2 081001 

宇沢弘文氏曰く、新古典経済学派は、アメリカがやってきた経済政策を正当化するために生まれたものであり、生みの親シカゴ学派だけでなくアメリカの経済学者全てに共通する価値観によって形成されているという。つまり、競争を社会の是とすることや、個人の利益の最大化などの価値観を取り扱える学問として、新古典派経済学を構築したのである。日本の経済学者が追いかけている経済学とは、アメリカの社会を説明する道具であり、なんらグローバルなものではないのだ。厚生経済と名のつくものでさえ、せいぜいパレート最適にあればよいというのだから、公平性などの概念は入っていない。どういうことかというと、アメリカでは個人の努力でのし上がることを否定していないので、努力にみあった富を個人が得ることがあるいみで社会の厚生性を高めると考えている。だから、ビルゲイツ一人が何兆円もの資産を獲得しても、アメリカ経済はパレート最適にあるのだから、よいとの方便に持ち込んでいる。日本が考える万民の公平性は、今の新古典派経済学には入る余地がないのである。パレート最適そのもの価値観が公平性とは無縁である。あるいみ多数決的な価値であろう。
しかし、その価値観だけで経済を動かしていくと、極度の貧富の差が生じる。そこをアメリカでは、寄付や税金等で補償している。ビルゲイツも多聞に漏れずやっている。日本は、そうした社会システムの全体をまねせずに、経済学理論だけをまねしようとするので、社会の経済状況を説明できないし、また、学問の果実が社会に還元されない。何をやっているのかも分からない。端的なのは、現在の経済学の大家と言われる宇沢氏自体が、著書に見られるように、日本経済の仕組みがてんで分かっていないことが証左である。
宇沢氏が言うように、アメリカではこの学問が無いと社会を説明できないので、敢えて、経済学の基本条件の見直しをしていないという。宇沢氏はだれも根本の条件を研究していないことを指摘するが、敢えて日本人の経済学者がすべきだとも言わない。経済学の本質が分かった人は言えないのだ。この学問の前提はひどいと。だから、新古典派経済学の非人間的な前提を敢えて明らかにしないのだ。いやすることができないのだろう。学理として昇華させるほどの力を持った者が経済学をやらないだけでなく、経済学を勉強し始め理解してから気づいてもこと既に遅しとなるのであろう。
この数日気になっているのだが、外部性も市場で扱うことはある種の変換によって可能だろうし、そのような処理をすればよいだけと思っていた。宇沢氏もそのような言い方をしている。たとえ気合いを入れて、日本版新古典派経済学を構築しようと取り組んでも、大枠は現在の経済学のフレームを使うことになるだろう。せいぜい、消費関数、需要関数、経済主体等をいじる程度であろう。公平性や外部性を取り込めないなど言わずに、修正した経済学を構築すればいいのだ。その程度の学力は日本にだってあるだろう。一人の学者だけで頑張るのも良いが、先鋭の数学者や社会学者でタスクフォースを組めば、1~2年でできるだろう。経済学者はオブザーバでよいだろう。

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