2009年8月7日金曜日

宇沢弘文著 「自動車の社会的費用」に思う 080930

2章分をまるまる使って、経済学者の視点からわが国の自動車・道路政策を批判しているが、この著書には、大きく2つの点で誤謬を感じる。
一つは、歩道もない道路を生み出してるのは、心ない設計者と行政官だと決めつけていること。二つは、ドライバーが心なくその道路を走って交通事故禍を引き起こしていることが、経済的にフリーライドだと決めつけていること。
批判に晒しているものの背後を見ていない。見ることにより、論点ががらっと変わる。そういう点では論の展開にミスを犯していると言える。

誤謬の1点目は、宇沢氏が道路設計、道路行政に明るい人に聞けば直ぐに自分の指摘が間違いだとわかることである。まず、設計者は良心を持っていたとしても、職業倫理上、委託者に従うのが前提であり、従わなければ委託業務を納めることができない。よって、指摘対象の論外。行政官は、道路整備事業を発注する主体だから罪がありそうだ。しかし、道路構造令で定めた道路規格(これを絶対視するのも大いに問題があるが)に従わせようとすると、日本の道路自体が道路規格より狭いので、規格に不足する分の用地が必要となり、確実に沿道を延長方向にわたって広域の用地買収が発生する。この用地買収にかかる費用や立ち退きにかかる期間を考慮すると、現道整備とせざるを得ないのが実際である。よって、行政官も致命的な責任があるわけではない。ただし、この道路構造令や道路法を決めた国民に責はあるとは言える。
経済学者なら現実の施策はこのあたりの比較考量により執られることを理解しているはず。知らないのなら勉強不足だし、故意であれば悪意を感じる。
まず、比較している欧州都市はすべて拡幅して整備をしているかを調べるべき。欧州は馬車の文化をもっており、自動車は馬車サイズ。現道整備で進めて問題はない。アメリカは最初から都市を造ったので、欧州に学び自動車サイズで道路を設計。マンハッタンが良例。日本でも更地に新設する道路は道路構造令の規格どおりに整備されている。一緒くたにして議論しているところによく考えずに結論を急いでいることが露呈している。社会学系の経済学者と標榜するなら、その程度の基礎調査には時間を惜しまないことが最低限。

誤謬の2点目は、経済学者らしからぬ視点と思う。経済学では個人は自己の効用を最大化するように行動するとの前提をおいている。道路があり、自動車があれば、その効用を最大化するように行動するのが個人であろう。青天井で最大化されると社会厚生が低下するので、交通ルールがある。そのペナルティの範囲で行動がなされる。これは基本。
よって、宇沢氏が指摘する個人がまき散らしている公害は、交通ルールの範囲内で行動して起こるものであり、それでも問題があるとするなら、それを許している社会があるから発現しているのであり、要は内生化が不十分なだけ。
社会的費用を内生化するのは政策であり、国民の意志決定である。これも巡り巡って国民に責がある。公害対策の内生化方策にはコースの定理なども含め様々議論がある。しかし、内生化とは公害の発生責任が明確な範囲を同定(政策的に)して法令等に取り込めば良いだけのことだから、例えば、自動車事故を起こしたら即、免停で一生自動車を運転できないとか、事故が多い道路は封鎖するとか、自動車を保有しない法律をつくるなどなんでもある。
しかし、経済学者でなくても分かるのだろうが、研究対象である現実経済を支えているのは、物の交易であるのだから、現実に自動車運用を停めることはできない。経済の停止、生活の質の低下、生命の停止までを意味する。そうすると、「しかたなく皆でしのぎながらやっている」状況を取り出して、外部不経済とか社会的費用とか言っても天に唾をするようなもの。経済学者なら、どのように内生化するのが、現実経済への悪影響を抑えられるかを考え提案するべき。門外漢はこまる。せめて自動車の幅を縮めろとの発想はでてこないだろうか。

社会主義の劣位性 080828 

 貧しき人々、地下室の手記、怒りの葡萄を続けて読んで想記したのだが、前者ロシアの作品と後者アメリカの作品の大きな違いは、個人が社会システムに参加する余地があるか否かの違いにあると感じた。すなわち、社会主義には社会システムを壊す自由が全くないのだ。
自由主義には貧富の差が生じ、貧しい人々は資本主義に押しつぶされ、生活の自由が剥奪されているように写る。しかし、努力やチャンスにより生活レベルを向上させることは全く不可能ではない。かたや社会主義はまるでカースト制度のように個人を峻別する。帝政ロシアの時代はその後のソ連の社会主義とは異なるのだが、この時代にすでに萌芽がみられる。ロシア人(ナロード)の絶望的な叫びは、自己の力ではどうにもし難い、社会システムの堅牢さによる。
片や、初期のアメリカの貧困には、資本主義の大波に飲み込まれ、行き先を閉ざされながらも一縷の望みが失せない人々がそこにいる。また、今時のオバマ旋風のように、社会階層であった黒人階層からも大統領が生まれる希望が残されている。

ロシアにおける見えない手の恐怖とやるせなさ、失望は、結局人間をだめにする。かつて中世以前の人間は、進歩の概念なく人生を生きたといわれるが、まさにそのようなものだ。
神を失った以降の、ものを考える人類は、嘘でもいいから明日は今日より進歩していたいと切望する。近日考察した、N+1が無い人間社会は、必ず疲弊し、人から希望を奪いさるものとなろう。
 よって、かつてから薄々感じていたことだが、社会主義は個人の創意や工夫を一切評価しない社会システムであったからこそ崩壊したのだとのことを、別な確度から補強するものである。
ロシア人とは、もしアメリカのように自由主義にすると、多分、とんでもないことをやらかす人民なのだろう。だから、社会主義の名をかりて、人民が人民自らルールを敷いたのであろう。そう考える方が、合点がいく。

以上

経済学考3  081002 

宇沢氏の論文に触発。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしている。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因をtの関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者である。人の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学はなにもなし得ないとの烙印を押されるだけだ。それなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本といい、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないというのはまたさき以外の何者でもない。
前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者と後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分に対するフィードバックが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある期で上記の前者であったものが、やがて後者になるが、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要なのに無いものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えよう。
まだまだだな、経済学は。結局、データがとれないので屁理屈で終わっているのだろ。統計と一体化したSNAのようなシステムでないと、経済学の発達はこれ以上見込めない。
大体、学問の前提を語ると笑われるといったフリーメイソン的なムードが既におかしい。隠していると何も生まれないよ。

経済学考3  081002 

宇沢氏の論文に触発された。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしているという。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因を時間の関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。それとも純粋技術的に動学的な扱いは難しいということを素直に言っているだけなのか。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、
富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。少なくとも市場原理だけでは富の再配分は見えざる手では行われない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者と思われる。人間の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学では何もできないではないかと政策学として落第の烙印を押されるだけだ。その種のことなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本と主張しながら、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないと指摘するのは主張に矛盾を孕んでいる。
低所得である前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者とフリーライドする後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実質は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分のフィードバックに工夫を持たせることが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある時期に上記の前者にあったものが、やがて後者になるとしても、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要であるにも係わらず備わっていないものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えるのではないか。

経済学考2 081001 

宇沢弘文氏曰く、新古典経済学派は、アメリカがやってきた経済政策を正当化するために生まれたものであり、生みの親シカゴ学派だけでなくアメリカの経済学者全てに共通する価値観によって形成されているという。つまり、競争を社会の是とすることや、個人の利益の最大化などの価値観を取り扱える学問として、新古典派経済学を構築したのである。日本の経済学者が追いかけている経済学とは、アメリカの社会を説明する道具であり、なんらグローバルなものではないのだ。厚生経済と名のつくものでさえ、せいぜいパレート最適にあればよいというのだから、公平性などの概念は入っていない。どういうことかというと、アメリカでは個人の努力でのし上がることを否定していないので、努力にみあった富を個人が得ることがあるいみで社会の厚生性を高めると考えている。だから、ビルゲイツ一人が何兆円もの資産を獲得しても、アメリカ経済はパレート最適にあるのだから、よいとの方便に持ち込んでいる。日本が考える万民の公平性は、今の新古典派経済学には入る余地がないのである。パレート最適そのもの価値観が公平性とは無縁である。あるいみ多数決的な価値であろう。
しかし、その価値観だけで経済を動かしていくと、極度の貧富の差が生じる。そこをアメリカでは、寄付や税金等で補償している。ビルゲイツも多聞に漏れずやっている。日本は、そうした社会システムの全体をまねせずに、経済学理論だけをまねしようとするので、社会の経済状況を説明できないし、また、学問の果実が社会に還元されない。何をやっているのかも分からない。端的なのは、現在の経済学の大家と言われる宇沢氏自体が、著書に見られるように、日本経済の仕組みがてんで分かっていないことが証左である。
宇沢氏が言うように、アメリカではこの学問が無いと社会を説明できないので、敢えて、経済学の基本条件の見直しをしていないという。宇沢氏はだれも根本の条件を研究していないことを指摘するが、敢えて日本人の経済学者がすべきだとも言わない。経済学の本質が分かった人は言えないのだ。この学問の前提はひどいと。だから、新古典派経済学の非人間的な前提を敢えて明らかにしないのだ。いやすることができないのだろう。学理として昇華させるほどの力を持った者が経済学をやらないだけでなく、経済学を勉強し始め理解してから気づいてもこと既に遅しとなるのであろう。
この数日気になっているのだが、外部性も市場で扱うことはある種の変換によって可能だろうし、そのような処理をすればよいだけと思っていた。宇沢氏もそのような言い方をしている。たとえ気合いを入れて、日本版新古典派経済学を構築しようと取り組んでも、大枠は現在の経済学のフレームを使うことになるだろう。せいぜい、消費関数、需要関数、経済主体等をいじる程度であろう。公平性や外部性を取り込めないなど言わずに、修正した経済学を構築すればいいのだ。その程度の学力は日本にだってあるだろう。一人の学者だけで頑張るのも良いが、先鋭の数学者や社会学者でタスクフォースを組めば、1~2年でできるだろう。経済学者はオブザーバでよいだろう。

経済学考1 080904 

ゲームの理論などは人間の意志決定パターンを数量化したもので、その観察対象は文学作品にもある。例えば怒りの葡萄などによく現われている。工業化により急速に変化するアメリカ社会。良きに付け悪しきにつけ、アメリカは近代工業化とともに国造りがなされた。
英国でうまれた内燃機関をフォードに代表される企業活動により、無からの国づくりに実用化・大量生産の域にまで達成させた立役者がアメリカである。コニーアイランドから発して、NYのグリッドに到達した都市づくりは、まさに城を持たない開拓地ならではのこと。
この過程において、アメリカ人は世界のどの国の人々よりも資本・労働・土地の重要性を認識し、その魔力を身をもって体験したことか。怒りの葡萄の中には、米国が生んだ近代経済学の実例が詰まっている。また、ケインズ以降のナッシュ均衡に至るまでも素材として豊富だ。彼らの生き様を体現するものが現在わが国が参考とした経済学である。
その意味では、わが国ではどんなに時を重ねても、現在のアメリカが生み出した経済学は生まれなかったであろう。もちろん、日本型の経済学の生まれる余地はあり得るが。
その日本の経済学ははっきり言ってプアだ。
日本の経済学がプアである原因は、日本人が米国流の経済学を体感していないことによる。
ある識者の論調をみると、学派の系譜や米国で言われていることの追従でしかない。その本質に迫れていないし、迫れない。これは、UntiTrust議論とまったく同じである。
ゲームの理論で例と示される囚人のジレンマなどは米国の人々の日常茶飯事の行動様式であり、彼らにとっては何らの不合理性のあることではない。
哲学がフランスの高校生にとってさほど難解でないことのようなものだ。
日本人は米国の経済学をうまく利用しようとしているだけである。経済学の魂を理解できないため、自分流に作り替えることさえできない。そのエンジンになっているものは、わが国の商慣行などに照すと、はなはだおかしい物もあろう。
一番良いのは、日本版の経済学理論を作ってしまうことだ。多くはパラメータ調整ですむのかもしれない。しかし、経済学者は米国のまねごとではなく、本腰をいれてわが国なりの経済メカニズムを解明しないと、決してまともなロジック構成はできない。結果として、米国の借り物に政府も企業も併せようとして、常に不都合さを感じながら、また、さしたる効果も見いだせずに徒労してしまう。
例えば、現在の経済モデルでは、家計、企業、政府をおいて、各セクターは契約でことを進めていくものとしているが、わが国ではさほどの契約の徹底はなされていない。混合経済である。そうした中での最適化は、パレート性であらわされるものか、よく見極める必要がある。経済理論のベースとなるこの国の商慣習、価値観を取り込まねば、まともなツールは構築し得ない。

2009年8月5日水曜日

裁判員の迷いに思う

裁判員制度の運用第一号が8月4日から始まった。日本でも、1928年から1943年まで陪審員制度が運用されていたそうだから、この種の制度運用は史上初ではない。しかし陪審制度が運用されていたわが国の社会状況、国民心理は、現在とは大いに異なっていると思う。そうした点では、本格的な民主主義社会史上では初体験であろう。
裁判員制度が今年5月にスタートするまでに、新聞では国民の偽らざる心境を紹介していた。それらに共通することは、自分に人を裁く権利があるのか、どういう量刑が妥当なのか分からないといった不安が示されていたことである。私はこうした世の人の考えに違和感を覚える。一国民の立場では、人を裁く権利は無いであろうし、素人では量刑の目安など分かろうはずがない。制度の元になる法律で求めているのは、国民に人を裁く権利ではなく「義務」を与えたことである。司法は国の重要な柱となる制度として、これまで専門教育を修めた者だけに付託してきたが、その専門的判断に国民が疑問を投げかけたことなどもきっかけとして、この度の裁判員制度が生まれた。本来は、国民が国民を裁くのは何ら不合理性が無い。民主主義の代表格である米国などでは積極的にそのように運用している。平均的な日本人が感じる、罪を犯した人を裁くなど私にはできない、と言う感覚は、家の中はきれいにしているが公共空間には平気でゴミを捨てる感覚にも似ている。単純化すると、社会は複数の人から成り立っていて、そこに不穏分子が出現すれば、社会の安寧のために皆でその不穏分子の処遇を決めなければならないというのは極めて明白なことであろう。裁判員への不安を口にする人は、不穏分子の処遇は社会の構成員の私でなくて、他の人がやってくれればよい、ということと同義だ。処遇の具体的な運用策は様々な形があろうが、原理原則は単純化したようなものと考えられる。その意識を根底に持っている必要があるし、そうして初めて罪を犯した人からも罪を犯された被害者からも逃げることなく正しい判断ができよう。さらに、日々、社会における正しい(平和を乱さない)行為とは何であるかを考察する習慣がつき、犯罪の少ない社会をつくりあげることに寄与できるというものだ。極めて国民皆の利益の向上にかなっている。
4日と5日の新聞記事には、裁判員を経験した人の意見があった。そこには、加害者を実際に見た最初の印象と状況証拠の陳述を聞くうちに加害者に対する印象が異なってきたが、印象(心証)がこんなに変わって良いものだろうか、ということを述べている。これらは正に裁判とはこのようなものというのを肌身で感じているので、よいことだと思った。これこそ弁護士の腕の見せ所であり、反対尋問などにより、双方自己正当性正を主張しあい、相手の非を攻撃することを見聞きしながら判決に向けた心証を形成していけばよい。しかし、私が現在の法制度の運用に疑問をもつのは、例えば今回の事件では、「殺意のあるやなしや」が大いなる論点と言われることについてである。
人が殺されるまでには様々な理由や偶然や意志があることは論をまたない。それは過程である。一方、生きていた人が命を奪われる事実としての結果が厳然としてある。その命が奪われることへの正当性?を今の法制度では裏付けようとしているように強く感じる。どのような理由や過程があろうとも、何事もなければ生きながらえた命を偶然であろうと故意であろうと殺めてしまった事実については、その引き金をひいた人を裁かない訳にはいかない。偶然であるので、その人には責任がないので、裁くことができない、という法制度にこそひずみがある。法制度は解釈の体系であるので、現時点ではたまたまそうした解釈をする人知が無いだけであるというのが正しい理解だろう。しかし、人は法解釈で示される判決文を遙かに超えた判断を瞬時にできる能力を持つ。故に、そうした判決には大いに違和感をもつ。どのような理由があろうとも人間一人を殺めたその人に罰を与えることに、人は違和感を覚えない。これこそが最も合理的な判断であろう。法が社会の安寧を図るためにあるなら、こうした運用こそが正しいと言えよう。日本の裁判が加害者の庇護に強く、被害者の保護に弱いのは、社会正義が図られていないことの証左である。それを是正しようとして裁判員制度が生まれたのだが、従来の間違った法技術をそのまま運用するのなら、正しい裁きは望み得ない。
最も基本となる思想は、命は命でしか贖えないとことである。命は最低限等価性が成り立つ。高名な大臣が名もない若者に殺害されても、両者は命の重みが同一であると言う点で平等である。その貴い命が殺められたのにもかかわらず、死刑や無期懲役が言及さえもされない判決もある。何故そうなるのか。それはこうした基本思想が法制度の底流にないことによる。日本の法制度がどのような明快な思想で構成されているかを端的に言える人はいないし、書籍も無い。こうした制度では多義解釈が起こるのが明白であり、裁判官によっても正反対の判決がままあるので、勢い判例に解答を求める。しかし、そんなことを繰り返していては国民経済に悪影響があるだけでなく、国民の正義感にも大いに悪い影響を与えるので、最終判断をする仕組みが要る。それが最高裁判決だ。最高裁判決が真理であり、地方裁判決が誤謬であるはずはないが、どこかで「決着」をつける必要のために最高裁がある。
命の等価性の観点に加え、憲法が保障する思想・表現の自由も考え合わせる必要がある。巷にはかなり危険な思想や表現があふれているが、民主主義社会を育むためには思想や表現には公共の福祉の限度を超えない範囲で自由を保障している。だから、私を含む国民は、頭の中ではどんなことでも考えられるし、ウェブなどにも公共の福祉の限度内では自由に表現ができる。「殺意」を抱いたかどうかが争点である、といったことは、こうしたわが国の憲法の観点から見ても、それを争点にするには不整合がある。殺意などは当然持っていると考えても良く、また加害者が殺意を否認したら、それも正しいということになる。殺意があろうとなかろうと、刃物で刺したら死んでしまったのなら、殺した事実があるので、それを問うことであろう。勿論、たまたま草刈りにでも使おうとして持っていた鎌に隣人があたってどこかが切れて死んでしまったのなら、情状酌量の余地はあろう。しかし、今回の事件のように刃物をもって往来を歩く行為自体が不法であるのだから、殺意を持とうが持つまいがそこを論点にすること自体が法側を迷宮に入らせしむる理論と考えられる。裁判員制度が今後しばらく運用される中で、国民が今の法制度の欠陥に気づき、法担当者が真剣に議論し改善するなら、わが国には未来があるような気がする。私も裁判員となる日を心待ちにしたい。