2009年7月14日火曜日

気づき

人が自覚的に認識することを「気づき」と呼ぶ。認識の対象は何でもいいのだが、自覚があることが重要なポイントである。例えば、ある空間に一人でいるとき、誰かが入ってくれば音や姿や気配で気づく。そんなときには、知り合いであれば顔を上げて、声の一つも掛けるだろう。しかし、初対面であったり嫌いな相手であれば、気づいても気づかないフリをする。ここでは、この状態をテーマとする。
この場合、主体が気づく&客体も気づく、主体が気づかない&客体も気づかない・・と4つの状態がある。険悪な仲であれば、お互ともに気づかれたくないのだが、その保証は無い。しかし、人は希望的に状況を理解する傾向がある。「あの人には気づかれなかった。こっちを見ていなかったから。」または、上記の4つの可能性を楯に、「私はあの人がいることは全く気づかなかった。他に目を奪われていたから。」とも、よく主張する。
まさに可能性だけの問題なので、気づいていたかもしれないしそうでないかも知れない。しかし、通常人は気づいていなかったと主張することの方が多いのではないだろうか。そのことが不誠実さを感得させ社会に不信感を蔓延させているようにも感じる。
いくつかの例を見てみると、例えば電車のシルバーシートに座っている際には、高齢者が目の前にたっても気づいていないように振る舞う。実際には多くの人は気づいている。というのも、シルバーシートに着席する時点で自分が座る資格がなければ、警戒心が働く。警戒心があるにもかかわらず、前に人が立っているかどうかも気づかない人はいない。勿論、泥酔者や爆睡者、無神経者など平均値から大きくずれている人は除いて議論している。
別の例だが、政治家が献金の実態を掌握していない、気づかなかったというのも、実際には気づいているのに不正直な発言をしているだけだ。気づかないとの可能性すらないと言って良いだろう。一般的には、よく、人は多忙なので気づかなかったという言い訳をすることがあるが、物事に気づかないほどに多忙になれば、そもそも仕事などこなせる精神状態にはなくなる。また、気づかないような社員に仕事を依頼するはずがない。政治献金が社会的問題になっているにもかかわらず、そのことに気を向けない政治家がいるはずがない。気が向かなくなったら、政治家家業を続けていくだけの精神状態にはない。政治献金が多いと言っても年間多くたって1000件もあるだろうか。それを職員が処理するとしたら、半分専従になるぐらいの処理量となる。そんなことを毎日やっている職員の報告を聞かないあるいは聞けない政治家などいるはずがない。つまり、政治家が自分に対する政治献金の状況を掌握していないなどということは正に政治家らしいウソである。仮に件数が少なくても、「ウチは献金は大丈夫か」と聞かない政治家はいない。
 このように人は気づかないと言うとき、多くは不正直に言っている経験があるので、他人が気づかないといった際には相手の言をほとんど信用していない。つまり疑っている。この不信感が相互にあるために、社会が殺伐となる。では、その逆の命題として、人が気づいたときに正直に行動するならば、社会が穏やかになるのだろうか。その答えは、そんな社会は無いので正しいとも間違いとも言えないが、人間的な感覚から言えば、答えは否であろう。結局のところは、極端を排して中庸であることが安定的な社会を実現するということになりそうだ。そのためには、人は日頃から数回に1回は正直になることであろう。その日の終わりに、今日は何回正直であったかを懺悔するようになれば、中庸が実現し社会は穏やかになるであろう。