2010年4月3日土曜日

オウム、赤軍そして足利事件 その共通項 100331

 2010年3月20日に地下鉄サリン事件は15年を迎えたという。事件当時、この事件の裁判は最低10年はかかるとの新聞記事を見て、何故これほどまでに明確な事件が10年もの歳月を要さなければ罪を裁けない国なのだろうと不可思議に思った記憶がある。こうした司法システムを温存させる社会は、やがて社会正義を風化させるのだろうなと暗に感じたものだった。15年後、現実に社会はそうした雰囲気を醸し出している。これはこの国の国民性に基づくものであることは明白だ。
 そうした折、その2日前の3月18日には、朝日新聞に「オウムの組織 強さと弱さが不可分に同居」という論考が新米国安全保障研究所長のリチャード・ダンズィグ氏から寄稿されていた。この論考は、今や世界的な脅威となったイスラムテロに対峙するためには、オウム事件の経験が役立つというものだった。正直な感想だが、一読し、アングロサクソン系のエリートがエレガントに考察したものとの印象を強く持ち、我々アジア農耕民の日本人のテーストには適わない気がした。つまり、我々の心にはストンと落ちない論考だということだ。テロ対策の戦略としてはこうした分析となるのであろうが、実は、オウム事件は日本人のだれもが主人公になり得る事件だという視点が欠落している。
 日本人ではないから分からないのかもしれないので、日本人の視点から少し解題してみたい。
 表題のように、実は、オウム事件はサリン散布や新興宗教という新しい形をとっているが、60年安保運動時代に起きた赤軍の浅間山山荘事件と軌を一にする。オウム事件では、東大生や医者やコンサルタントなどいわゆる社会のエリートが事件を主導しているが、そうした社会クラスの違いが視点や思想の違いをもつという観点が既にアングロサクソン的である。日本人や隣国アジア人、中東のアラブ人などは、社会クラスによる視点の相違はさほど無いと捉える必要がある。異なるのは知識量の違いであるが、メンタルはまったく同じといってよい。メンタルが異なると、アジア・中東の社会では社会生存すら怪しくなるからである。この点は極めて重要なポイントである。キリスト教の伝道が定着しないのもこうしたことに起因する。アジアのメンタルはキリスト教向きでは無いのである。もし、キリスト教の教えを実践していて、何不自由なくアジア社会で生活できるのなら、キリスト教は定着するであろう。
 日本人のメンタルを知りたければ、日本文学を読むことだ。日本の純文学を読むと、日本人の心の内奥や価値観が良く分かる。そこには、アングロサクソンが普通に持つような、正義感や社会使命観などは微塵も無い。だからダンズィグ氏が論考するような、「殺人兵器の使用によって、組織の経験は増強される。・・・中略・・・他人とともに実行すれば、同志愛が築かれる。 これらの特徴は、強い連帯感をも生む。シェークスピアは英国のヘンリー5世が戦闘直前に兵に語りかける場面を描いたとき、兵士たちが「兄弟の絆(きずな)」でつながっていると王に語らせた。 」といった感覚は日本人には無い。だいたい、こんなに格好良く、こんなに建設的な観点は無い。知識人でも。こんなことを日常の会話で持ち出すと、怪訝な顔をされるし、言っている方も赤面する。格好をつけるなと言われる始末。
 ただ、氏が指摘する「連帯関係」は正しい。日本人はこの心理的連帯性に過剰に反応する。というか、人生のほとんど、また、一瞬間一瞬間はこの心理に全幅が占められていると言っても過言ではない。これ故に、日本人の行動はウェットであり、格好が良くない。それは現代においても変わらない。意識が自分中心であり、瞬間の判断が自分と相手の関係でしかないと言える。日本人が犯す犯罪は戦争も含めて陰惨なのは、この自己意識の強さに拠るのであろう。偶さか、自己を超える思想をもった輩が人道愛や博愛精神を発揮するのみである。
 この自己意識の底にある価値観とは何か。これは、「自分だけ」を冠する全ての価値観である。つまり、“自分だけ”「損する、得する、爪弾きにあう等等」。もっと深めて心理学的に言うと、結局、潜在的な「恐怖心」がそうさせるのである。この恐怖心は、歴史的な産物とも言えようが、究極は民族的生得的なものであろう。恐怖心が派生することにより、他人に対して慇懃になりもし、礼などという防衛のための社会形式も生まれる。恐怖心が形を変えると自制の効かない暴力にも形を変える(秋葉原事件など)。人と人は基本的に相手に対し警戒心を常に持っている。恐怖ゆえの警戒心なのである。社会で人々が互いに譲り合うのも恐怖心警戒心の派生行動である。だから、朝青龍のように自由気ままに振舞うことに対して、客観的には作法が云々と論評するが、実のところ、あれだけ自分の都合のよいことをしているにも関わらず社会的に生存していることが許せないというのが偽らざる日本人の心理なのだ。CMで「強けりゃいいってもんじゃない」的なものがあるが、ああ言った感覚だろう。通常の表現では「何様のつもりだ!」ということであり、わきまえろと。つまり、お前ごときに我が物顔をされたくない、俺もしたのに我慢しているのに!!というイメージだ。これも結局、根っこに恐怖心がありその変形価値観であろう。
 加えて日本の小説に見られるように、とにかく理由はどうであれ、日本人は自分が「不完全」であることを強く意識している。門地や学歴に関わらず、不完全である自己への落胆が強い。その反動として、文明開化以降は西洋をモデルとしていわゆる西洋かぶれやブランド物志向、エレガントなものへの憧れなど、なんらの考察も無く無闇に傾倒する。国粋主義や和物重視も実は完全さの象徴となる西洋の反動なのである。
 こうした性向をもつ日本人のマインドコントロールをするのはさほど難しくは無い。誰でも考え付くことだが、頭では無く体で制御することだ。密室や隠れ家しかり、身体的自由を束縛し、恐怖心やその補償としての優しさを与え、その者の不完全さを強調し、ある種の教えを垂れる。まあ、欧米でも手口としては採用しているであろうが、信念の無い日本人は即座にマインドコントロールされる。こうした集団洗脳の中で誰かが循環の輪を断ち切ろうとするだろうと考えるのは、西洋人だけ。不等号が逆向きにならないようにA>Bの状態を恐怖心であおれば、鼠算式に洗脳が循環する。
ここで重要なのは、麻原のようないわゆる狼の存在である。日本人は基本的に羊であるので、どんなに羊の数が多くても、一匹の悪意を持った狼がいれば、その集団はあっさり操作できる。この状況は現在でも会社組織や学校の集団、地域社会で当たり前に見ることができる。言ってみれば、コルシカ島のマフィアみたいなイメージである。羊は意味も無く平和を求めるので、狼が、お前だけでなく、一族郎党食い殺してやると脅かすだけで、あっさりマインドコントロールできる。昨今流行のオレオレ詐欺も結局は、恐怖心のために支払っているだけである。息子が傍にいるにも関わらず。さらには、あの足利事件の被害者もその典型である。検事の尋問テープが公開されたことは、国民的によいことだと思う。あのテープを聴いて、殆どの人は何も脅かしていないじゃないかと感じたであろう。検事も公務員、テープに録られてまずい言い方をするはずが無い。被害者はこのテープを聴き、多分それ見ろというより、いかに自分が小心者でふがいがなかったかを恥じ、赤っ恥をかかされる思いであっただろう。意地悪な言い方をすると、自分で犯人になっていっただけじゃない。やってないんなら、床に寝転がったり、地団太を踏んだりして否定すべきじゃないか。と、いう見方もあろう。しかし、多くの日本人は彼の心境は痛いほど分かるのだ。ここで否定しても、ずっといつまでもかつ四六時中付きまとわれたらノイローゼになってしまう。正義はどこかにあるのだろうから、ここは適当に切り抜けようと。こうした目に見えない恐怖心が彼に虚偽の自白までさせてしまったのだ。
 恐怖の関係は好悪の関係に置き換えられるので、羊は自分はあなたに対して危害を加える者では無いよとの愛想を振りまくことで狼に取り入る。公衆の場では、わたしはあなたに危害を加えるとか加えられるとかの関係にありません。そもそもあなたとは関係が無いんです。と主張するために、能面になる。日本人が満員電車で能面になるのは、相手への感情を隠すためである。しかし、一度感情の発露を見せると、とんでもない惨事が起き得る。欧米社会でも人種や思想の違いによる軋轢緩和のために、もう少し積極的に挨拶や笑顔でのジェスチャーをしている。日本社会も外国市民が多くなれば、能面だけでは済まされず、そうせざるを得なくなる日も来るだろう。
 さて、こうした日本人が、マインドコントロールから解かれた場合どうなるか。実はマインドコントロールとは耳障りがいいが、マインドなんてコントロールされてはいないのだ。ただ、恐怖心がそうさせているだけなので、オウムの場合は麻原が逮捕され、自分を監視するものが逮捕されれば、周りをきょろきょろと見回して安心となれば、普通の羊にもどるだけだ。実際、オウムの幹部連中も何でこんなことをしたんだと尋問されても、さしたる思想など無いのだから語る訳は無い。麻原の下らない思想に感化されない程度の知力は持ち合わせているであろうから。ただ彼らの場合は恐怖心もあったが、もっと悪いことには悪乗りをしたのである。つまり、麻原の下らない思想に感化されたフリをして、自分の持つプロフェッションを最大限に発揮したのだ。現実の世界では大変な知的努力をしないと自己の専門性で評価されることは難しいが、オウムという集団では手と足は一般信者が担うので、自分は頭を使えばいいだけ。それも荒唐無稽なことに対して。これは、実は、浅間山の赤軍、さらには第二次世界大戦の日本の軍と国民の関係そのものである。戦犯もそうであったが、オウムの幹部もさしたる思想など述べなかった。そもそもそのような思想は持ち合わせていないからだ。思想家で危険な人物は三島由紀夫ぐらいだろう。
第二次世界大戦後も国民は戦争責任は軍にあるとし、自分たちは騙されたといっていたようだ。しかし、ある作家によると、こうした悲惨な戦争に突入したのも、国民自らに物事を適切に判断する能力が欠如していたからであり、軍も国民も重過失であるという。さすがにわが国の国民と雖も物事の判断能力程度はもっていただろうから、やはりいわれの無い生得的な恐怖心が集団行動に走ったと言えるだろう。よく、ものの本に、終戦直前まで鬼畜米英などといっていたお偉方が、玉音放送後にはアメリカ万歳!と叫び、自分たちは間違っていたという始末で、そんな大人を信じてきた子供たちは人間不信に陥ったと書かれている。ことほど左様に、わが国の人々は、マインドコントロールなどという高級なものにはかからず、単に自分と家族の身の安全のために嘘や同調を繰り返しているに過ぎないのだ。これについては日本人は正面から認めないが、誰も否定はしない事実である。
 もし、本当に日本人のことを知りたかったら、日本人とともに行動しながら、今なんでこんな判断をしたの?と聞きながらやれば、すぐに日本人の価値観の全貌は見えてくるだろう。そこで得られる情報は、頭で行動している欧米人には戸惑うことばかりかもしれない。なんとなく、とか、特に理由はありません、とか、流れで、とか、周りの雰囲気で、とか、これが好きなので、といった理由ともならない理由が発せられるであろう。
 こうした民族であるから、オウム事件が特殊な例だなどと判断していると、やがて、また、前の大戦のようなことをみすみすやらせてしまうことにもなる。このような民族を押し止めるには、もちろん宗教もいいのだが、かたまりを切り崩すことであろう。日本人は羊なのでなかなか兆候をだしにくく、いつの時点で悪に染まっているか分かりにくいが、そもそもが悪意が無いので、日常の行動を見ているだけで大体見当が付く。それは家庭でも職場でも同じである。ジョージ・オーウェルの「1984年」ではないが、監視することが手っ取り早い。日本人は極端にプライバシー侵害を嫌うが、とにかくオフィシャル=よそ行きモードでいるのが煩わしいので、くだけた調子になりたがるほか、例の恐怖心から他人から覗かれるのが身の毛がよだつほどに気味が悪いのである。なので、監視してもたいしたことはしていないだろうが、そもそもがコソコソした行動パターンだから、監視していないと悪に染まるタイミングがどこなのかも分からない。メールなどを監視するより、行動を監視すれば殆ど把握できるだろう。
ただ重要なのは、監視して注意すればそれで済むのではなく、身の安全を保障することである。恐怖心ゆえの行動であるから、恐怖心を取り除くことによってのみ、その行動を止めさせることできる。
 日本人が恐怖心を内在させ、それが原因となって説明できることが他にもある。例えば、多額の貯蓄や土地への異常な執着、金への異常な執着がある。年金などの公的なものさえ信用できないのである。またこれを裏付けるかのように社会保険庁のルーズな対応が明らかになるものである。このルーズさえも実は、原因たるや社会保険庁内の職員の恐怖心から生まれたものであることが報道で分かろう。 
 米国がオウム事件から何かを引き出そうとの着想は良いことだと思う。しかし、事件の犯人と何度接見してみても、とるべき戦略に繋がるものは見出せないだろう。それは、アングロサクソンの思考パターンになじみにくいからである。しかし、中東のテロは米国だけでなく世界にとっても脅威なので、是非、似た思考をする日本人を米日合同の対策班員として育て上げ、テロ組織を瓦解してほしいものだ。期待したい。口が堅いのも日本人の特徴だし、特攻は日本人の十八番。恐怖への補償と大儀を与えれば、米国人以上の仕事をするであろう。