2009年9月1日火曜日

わが国のビジョン

 半世紀にわたり衆議院の第1党与党として君臨してきた自民党は、8月30日の選挙を経て一夜にして野党となり下がった。しかし、これにより戦後連合国アメリカから強制的に与えられた民主主義は、ようやく次のステップに踏み出すことができるかもしれない。ほぼ専制国家だった国が、西欧諸国におくれて民主化したが、国民に心の準備があったわけでもなかったため、戦後しばらくは怪しげな民主主義国家として歩んできた。先行して大正デモクラシーなる民主主義の萌芽はあったのだが、この時代の著書にあらわれる民主主義への思いは、何となく偏りがある印象を醸し出している。それもそのはず、民主主義が生まれたフランスやイギリスの精神とは少なからず趣旨を異にしているからであろう。
しかし、民主主義の形態に正解があるわけではない。日本版と言われようと、何と言われようと、民意が政治に反映され国民生活が運営されるのであれば、世界に胸を張ることができる。今回の民主党圧勝により、二大政党化は幻であったとか、首をすげ替えても基本は同じとか喧しく揶揄される。が、そうした外形的なことは民主主義の本質を著しく曲げるものではない。民主主義の本質は、民意による国の運営であり、即ち納得度の高い国民生活の実現である。この実現は、考え方と実践がきちんとできていれば可能となる。
 今回の選挙報道での強い指摘は、両党とも国民にビジョンを示していないと言うことである。2009年1月にアメリカ合衆国大統領に就任したオバマ氏は、就任演説で国民にアメリカが進むべき道を明確に示した。この就任演説は他国民でさえも感動と鼓舞を与えるものであり、きわめてよく練られたものだった。わが国では首相の就任演説でこれだけのビジョンを描いて見せたことが、この数代の首相就任演説であっただろうか。
 なぜ、わが国では首相を始めとして、政党が国の進むべき道を明確に示せないのだろうか。
それは、そのようなビジョンを描く力が総じて無いことによるのだと思う。そんなことは無い、日本人は世界でも学力が高く、世界的に活躍している優秀な人々も多い、などとの反論もあろう。しかし、ビジョンとは思想であり、構成力である。その力が相対的に劣っていることの例証もまた多いなか、個人芸の高さを引き合いに出しても説得力は無い。かつて「所得倍増計画」なるビジョンがあったが、これは時の趨勢を目の当たりにして、政治の願望を述べた程度のことである。所得を倍にすると政府が保証できるわけがない。所得は経営資源からの切り出しであり、経営者が倍の売り上げをしたからといって、相似的に職員の給与が倍にはならないのは当然の理。しかし、高度経済成長の波を国民全体が肌で感じているときに、そのムードを体現したキャッチコピーとしては上出来である。今回の選挙も「政権交代」とジャストミートのワーディングが国民のもやもやした心を体現し、投票行動に結びつけた。
今の日本において、確かなるビジョンを描きようが無いという面もあろう。しかし、そうだから描けないと言うのであれば、優秀な行政マンに政治を任せていれば、国政は回っていくという姿勢と同じになる。かといって、できもしないビジョンを描くのも国としての知見の低さを露呈してしまう。例えば、今、マニフェストとして所得倍増を掲げても、日本の経済運営さえできない政治家は一歩を踏み出すことさえできない。そもそも所得倍増を国民が望んでもいないが。定額給付金などはそのたぐいだろう。これは経済学者がクルーグマン教授が言うように、日本は流動性トラップにはまっているなどと考え、呼び水となるように定額給付金をばらまくよう首相に示唆したのかもしれない。というか、首相が勘違いしたのかもしれない。
 では、日本の政党は国の進むべき方向を見いだせないのだろか?そんなことは無い。もっと真剣に考えればいいだけのことだ。日本語は論理的でないから、議論をしていてもかみ合わないとか、日本人は偉くなるととにかく物事を単純化したがる傾向が強い、など米国などに比べ見劣りするところがあるのも事実だが、頑張れば可能であろう。役所も国民も理論的でなかったり、文字を沢山読むのが苦手であったり、議論をすると直ぐに熱くなり破壊的になる傾向にはあるが、それを特性と捉え、明快な言葉でビジョンを描けばよい。ビジョンはこの国が抱えている問題を明快に解決する印象をもつものでなければ、打ち出す意味が無い。
例えば、現在わが国では、若年層が職に就けない社会現象が蔓延し、この国のイメージを暗くしている。この問題を解決するために、「若者の全てが正社員になれるようにする」といったビジョンを構成する政策の柱を掲げたら、国民はどう感じるだろう。これは所得倍増と同じ根を持つカラ約束の部類であると感じるだろう。何故か。そこには具体的な展開の道筋が見えないこともあるが、まず、困った人を政府がまとめて救済するという姿勢に違和感を覚えるだろう。そして、その財源の手当の不透明さと。さらには、個人には就きたい職業が異なること、そして受け容れる企業にとっては、それによる業績悪化を政府が保証するのかしないのかの不透明さがあることなど、など。
アメリカには建国の精神があり、政府が打ち出す政策はその精神に照らして国民が判断しているようだ。日本の場合、照らすべき価値観や精神は明文化されていないが、社会風土として受け容れられない政策は拒絶される。努力もせずにお金を手に入れることをこの国ではよしとしない。人の褌で相撲を取ることをよしとしない。国民の怒りはそうした生活価値観からでてきている。打ち出される政策は、これらのチェックをしているのだろうか。
 センスが悪いとは前述の政策のようなものを指すのだろう。こういう政策を見て、とても賢い人が考えたとは思えないし、誰が考えてもこうはならないよな、という愚かな印象しか沸かない。このような政策を打ち出すと、その政党は愚か者の集まりのように感じられ、何をやってもこの体たらくと類推が働くようになり、かなりの悪印象を持たれてしまう。それをやってしまったのが自民党だったのだろう。
 では、「明日の社会を担う若者が安心して働けるよう、労働法の見直し、受け入れ企業の拡大、職業教育訓練の充実を国民の協力を得ながら図っていく」などと、詳細化された場合はどうか。何でも縮めればよいという風潮では、大切な要素を切り捨てて誤解を与えることが多々ある。そういう点では、まだ方向性が示せていると言えよう。前述のキャッチコピーももっと丁寧に表現すればビジョンの骨格となるかもしれない。要は国に暗雲たれ込めている若者の就職の改善を、こことここをきちんとやるよ、と言うことを明確に示せば、日本人だけでなく他の諸国にも理解・納得して、受け容れてもらえるだろう。
 民主党の主張する1000円高速はどうだろう。誰もが指摘するように京都議定書をまとめた国としてセンスのなさを感じ取る。1000円高速にしても、CO2の排出量は全体ではこれこれこういう理由で増えないとか、増えるのは事実だが景気低迷をそのままにしておくとCO2を今後減らすのにもっと投資コストがかかるとか、そのような説明を示さないと国内外が納得できない。もし、政治家がそうしたことを理解できずに政策として掲げているとしたら、この国は民主主義以前の問題を抱えていることにならないだろうか。
数学では応用問題が不得手であると言われる国民だが、応用とはまさしくそこに書かれていないルールを思い出し、問題を多面的に吟味する力に他ならない。日本の教育はコンピュータに例えるとCPUの性能の高さばかりを競う傾向にあるが、ディスクの中身も充実させたり、クロックが多少遅くても、深みのある見方を提示できる教育が必要だろう。そのためには耐えて訓練することの重要さを再び国民の生活に呼び戻すことも国造りとしては重要であろう。
以上