2009年11月20日金曜日

オリンピック招致へのこだわり 2009年11月20日

10年以上も先の2020年開催予定のオリンピック開催候補都市にはやばやと名乗りを上げる都市がでてきた。今度は先ごろ落選した東京都だけではなく、広島・長崎も新たに加わるという。今後はさらに増えるかもしれない。何故、これだけオリンピック招致にこだわるのだろう。率直に疑問である。
もちろん、いくつかのまことしやかな理由は誰しも1つや2つは掲げることはできよう。しかし、いつもこうした宣言に対して違和感を覚えるのは、そこに何らの必然性が感じられないことだ。広島・長崎はオリンピックをとおして「世界平和」を訴えるのだと言う。で、何故オリンピックで平和、とくに核に絡む平和への訴求なのだろう。オリンピックはこれまでもスポーツをとおして政治・思想を超えて競おうとの精神で進められてきた。もちろんその精神を完全に体現しきっていないのは、モスクワオリンピックへの不参加などにも表れているが。
広島・長崎に限らず、東京都にもつうじるが、敢えてその主張をスポーツの祭典であるオリンピックに絡ませようというセンスが理解しがたい。オリンピックには、明らかに都市の整備促進とある意味で近代文明促進化効果がある。日本も東京オリンピックを契機に、また札幌冬季オリンピックを契機に都市基盤が高度に整備され、近代化を図ることができた。北京もそうだし、2016年開催予定のブラジルも現在の経済基盤をより堅固なものにしつつ、先進国家への参加のための基盤づくりを果すことであろう。
世界を見渡すと、オリンピック招致をきっかけとして経済・文化の高度化を果したい諸国がまだまだたくさんある。鎖国・敗戦から世界経済を牽引するまでになった日本が、再びオリンピックを開催することで、そうした世界の国々の近代化のチャンスを10年近く奪うことになる。そうした配慮が今回の東京都の開催国招致宣言の中にあっただろうか。敗因はもっぱら、投票権を持つ国をうまく取り込めなかった下手さにあるような言い方もあるが、他国はそのようには見ていないだろう。何故、日本だけが財力にあかせて、二度もわれわれのチャンスを奪うのか、という浅ましさへの嘲りもあるであろう。
金を掛けないオリンピックを実現し、東京の環境を改善するのだ。こんな主張がオリンピックの精神のどこと触れあっているのか。かつて開催したときに整備した施設を活用し、オリンピック招致をきっかけに世論を動かし、新しい都市整備を進め、弱体化しつつある日本の経済的牽引車である東京を強化したい。言っているのはそういうことなのだ。いわば独りよがりと言えよう。では北京オリンピックはそうではないのか。そうではない。国体は社会主義で経済は資本主義の中国がオリンピックを開催することにより、好むと好まざるとを問わず、着実に欧化することになる。それが結果として、または、図らずも民主化に転べば、世界的な平和の駒がまた一つ増えるわけだから、グローバルな世界となった今、平和プロセスの形成の面からも世界が期待するところであろう。旧ソ連がペレストロイカなどにより弱体化した国体を立て直そうとした政策が、幸か不幸か社会主義を崩壊させた。中国も12億人に国民を食べさせるためには、必然的に資本主義の導入が必要と理解して市場開放・市場参加を進めている。しかし、一部の上層部を除いては、資本主義に内在するメカニズムにより民主化の方向に転がっていくことまでは理解が行き届いていないであろう。いずれにしても、オリンピックにはこうした効果が期待されているのであって、日本の経済再生や世界平和訴求のために役立てようというものではない。今回、オリンピック招致国の闘いに敗れた原因を識者の意見にみると、オリンピックの本来の意義に照らして論ずるものは少ない。ところで、オバマ米大統領がシカゴに対する応援が形だけに終わったことに大統領の力のなさを言う意見も見られるが、かの戦略王国米国だからこそよくわきまえた行動だと思った。
では、広島・長崎は核のない世界平和を訴求できないのか。また、東京都は環境により都市づくりを世界にアピールできないのか。そうではない。オリンピックではなくとも、世界の諸国を東京などに招待し、東京発の世界大会を仕組めばよいではないか。数百億円もかける余力があるのなら。そうしたことを自力でできたときに、世界の賞賛を得られるのではないか。

2009年11月18日水曜日

公開事業仕分けに思う 20091118

わが国の政治で初の公開事業仕分け。案の定、マスコミ、識者の反応は辛口で、かつ表面的である。曰く、稚拙であり1時間ぐらいで判断ができるはずがない、既に決まっていたんだ、財務省のお先棒担ぎさなどなど。
これらの批判は仕分けの「仕方」についての評価であり、仕分けの「本質」への評価にはほど遠い。
何故今仕分けなのか?答えはそれほど複雑なものではないだろう。
国民的観点から言えば、40円ぐらいしか毎年財布に入ってこないのに、100円もの買い物をしようとしているからだ、不要なもの買わないと言うこと。しかも、付けで。付けは出世払いで済むなら、笑って済ませられるが、出世は当面隣国中国がすることになるので、日本は当面「ひら」のままだし、ひょっとしたら窓際で給料も半額近くなるかも知れない。にも関わらず、家族はそれぞれにあれが必要だ、これが欲しいと口々に訴える。こうした場合、家族の誰かが「少しは我慢しなさい!」と言うのが家族(国家)たるものだろう。その判断を家族会議を開いてやっているのだ。当然のこと、「Aちゃんは今回はお預けだな。」と言われれば、それを欲しいと要望する兄弟は日々新しい買い物への憧れを考えているので、死にものぐるいで反発するだろう。そして、「なんであたしのだけ。何もわかっちゃいないくせに!!」と叫び、悪くすればぐれるかも知れない。言ってみれば、これが現下のマスコミ的反応だ。
つまり、財布の中身や財布を管理するのは自分の役目ではないので、「本質」を評価できないのだ。事業仕分作業は、引っ越しや大掃除に似ていて、捨てようか取っておこうか迷う時に、一々じっくり考えたり読んでいたのでは、仕事はさっぱりはかどらない。後悔するかも知れないな、と思いながら、不要不急の視点でどんどん判断するのが仕分けだろう。その時の判断基準は、「無駄」が主とならざるを得ない。確かに、基礎科学者が憂慮するように、今基礎科学の研究費を削ったら、数年後はその分野の力は落ちるのは多少は分かる。しかし、その憂慮をも捨てざるを得ないような日本の台所事情であるという緊急性を理解してくれ、というのが仕分担当の切々とした心情であろう。
小泉元首相が牽引した社会の旧態壊しは、日本の国家としてのダイナミズムが弱体化していることへの警鐘であったのだろう。しかし、想像以上に弱った身体への鞭は、心を矯正することなく、様々なトラウマを作りだした。心が蝕まれても、まだ身体は栄養を欲して、自ら借金をしていきながらえさせようとしているのが現状の日本社会であろう。今回の仕分けは、病人の身体から、要らない「管」を外す作業だ。一歩間違えて、メインの管をはずせば日本という身体は息絶えてしまうかもしれない。
かつて英国が栄華の後の社会的なリセッション状態に陥り、英国病とまで言われたが、小さな政府を目指し、なすべき事を細かく評価する社会価値を敷衍させたことにより、なんとか破綻は免れている。
日本もそれを見習っての自民党壊しや自己責任社会、数々の民営化施策であったのだろう。しかし、「心」が伴っていないということが、船が進む方向を次々と変えざるを得なくなっている。
政権奪取を果した民主党もやはり日本人の集まりであった。毎月1億円ものハンコも領収書も要らない機密費の所在がわかったにも関わらず、一切それを公開しないと言い張るのは、国民から頂いたお金は、自由に使わせもらうよ、との宣言にほかならない。こうしたことを平気でできる価値観があるうちは、政治も変わらないだろうし、真の民主主義の完成からも遠のく。勝てば官軍的な意識だけが国の価値観だと、アングロサクソンの知的体力の勝った国々には今後も追いつかないし、4000年の歴史を生き抜いてきた中国にも及ぶところがない。ただ、日本人の誰も好きこのんで現状を受け容れているのではない。どうしようもない、何をしろというのだ、どうあがけと言うのだ、教えて欲しい。というのが、大方の本音であろう。経済にしても外交にしても、内政にしても、家族、会社等々。グローバル社会となってしまった以上、いまさら後戻りや北朝鮮のように鎖国をするわけにも行かないので、国民全員がしっかり考え、日々判断していくしかない。考えるための方法論さえ、この国では共通の財産になっていないが、識字率も高く、器用と言われる民族なのだから、国民がよい意味で協力・連帯し合い、何としてでも地球民として生き残りたいものである。