2009年8月7日金曜日

経済学考1 080904 

ゲームの理論などは人間の意志決定パターンを数量化したもので、その観察対象は文学作品にもある。例えば怒りの葡萄などによく現われている。工業化により急速に変化するアメリカ社会。良きに付け悪しきにつけ、アメリカは近代工業化とともに国造りがなされた。
英国でうまれた内燃機関をフォードに代表される企業活動により、無からの国づくりに実用化・大量生産の域にまで達成させた立役者がアメリカである。コニーアイランドから発して、NYのグリッドに到達した都市づくりは、まさに城を持たない開拓地ならではのこと。
この過程において、アメリカ人は世界のどの国の人々よりも資本・労働・土地の重要性を認識し、その魔力を身をもって体験したことか。怒りの葡萄の中には、米国が生んだ近代経済学の実例が詰まっている。また、ケインズ以降のナッシュ均衡に至るまでも素材として豊富だ。彼らの生き様を体現するものが現在わが国が参考とした経済学である。
その意味では、わが国ではどんなに時を重ねても、現在のアメリカが生み出した経済学は生まれなかったであろう。もちろん、日本型の経済学の生まれる余地はあり得るが。
その日本の経済学ははっきり言ってプアだ。
日本の経済学がプアである原因は、日本人が米国流の経済学を体感していないことによる。
ある識者の論調をみると、学派の系譜や米国で言われていることの追従でしかない。その本質に迫れていないし、迫れない。これは、UntiTrust議論とまったく同じである。
ゲームの理論で例と示される囚人のジレンマなどは米国の人々の日常茶飯事の行動様式であり、彼らにとっては何らの不合理性のあることではない。
哲学がフランスの高校生にとってさほど難解でないことのようなものだ。
日本人は米国の経済学をうまく利用しようとしているだけである。経済学の魂を理解できないため、自分流に作り替えることさえできない。そのエンジンになっているものは、わが国の商慣行などに照すと、はなはだおかしい物もあろう。
一番良いのは、日本版の経済学理論を作ってしまうことだ。多くはパラメータ調整ですむのかもしれない。しかし、経済学者は米国のまねごとではなく、本腰をいれてわが国なりの経済メカニズムを解明しないと、決してまともなロジック構成はできない。結果として、米国の借り物に政府も企業も併せようとして、常に不都合さを感じながら、また、さしたる効果も見いだせずに徒労してしまう。
例えば、現在の経済モデルでは、家計、企業、政府をおいて、各セクターは契約でことを進めていくものとしているが、わが国ではさほどの契約の徹底はなされていない。混合経済である。そうした中での最適化は、パレート性であらわされるものか、よく見極める必要がある。経済理論のベースとなるこの国の商慣習、価値観を取り込まねば、まともなツールは構築し得ない。

0 件のコメント:

コメントを投稿