2章分をまるまる使って、経済学者の視点からわが国の自動車・道路政策を批判しているが、この著書には、大きく2つの点で誤謬を感じる。
一つは、歩道もない道路を生み出してるのは、心ない設計者と行政官だと決めつけていること。二つは、ドライバーが心なくその道路を走って交通事故禍を引き起こしていることが、経済的にフリーライドだと決めつけていること。
批判に晒しているものの背後を見ていない。見ることにより、論点ががらっと変わる。そういう点では論の展開にミスを犯していると言える。
誤謬の1点目は、宇沢氏が道路設計、道路行政に明るい人に聞けば直ぐに自分の指摘が間違いだとわかることである。まず、設計者は良心を持っていたとしても、職業倫理上、委託者に従うのが前提であり、従わなければ委託業務を納めることができない。よって、指摘対象の論外。行政官は、道路整備事業を発注する主体だから罪がありそうだ。しかし、道路構造令で定めた道路規格(これを絶対視するのも大いに問題があるが)に従わせようとすると、日本の道路自体が道路規格より狭いので、規格に不足する分の用地が必要となり、確実に沿道を延長方向にわたって広域の用地買収が発生する。この用地買収にかかる費用や立ち退きにかかる期間を考慮すると、現道整備とせざるを得ないのが実際である。よって、行政官も致命的な責任があるわけではない。ただし、この道路構造令や道路法を決めた国民に責はあるとは言える。
経済学者なら現実の施策はこのあたりの比較考量により執られることを理解しているはず。知らないのなら勉強不足だし、故意であれば悪意を感じる。
まず、比較している欧州都市はすべて拡幅して整備をしているかを調べるべき。欧州は馬車の文化をもっており、自動車は馬車サイズ。現道整備で進めて問題はない。アメリカは最初から都市を造ったので、欧州に学び自動車サイズで道路を設計。マンハッタンが良例。日本でも更地に新設する道路は道路構造令の規格どおりに整備されている。一緒くたにして議論しているところによく考えずに結論を急いでいることが露呈している。社会学系の経済学者と標榜するなら、その程度の基礎調査には時間を惜しまないことが最低限。
誤謬の2点目は、経済学者らしからぬ視点と思う。経済学では個人は自己の効用を最大化するように行動するとの前提をおいている。道路があり、自動車があれば、その効用を最大化するように行動するのが個人であろう。青天井で最大化されると社会厚生が低下するので、交通ルールがある。そのペナルティの範囲で行動がなされる。これは基本。
よって、宇沢氏が指摘する個人がまき散らしている公害は、交通ルールの範囲内で行動して起こるものであり、それでも問題があるとするなら、それを許している社会があるから発現しているのであり、要は内生化が不十分なだけ。
社会的費用を内生化するのは政策であり、国民の意志決定である。これも巡り巡って国民に責がある。公害対策の内生化方策にはコースの定理なども含め様々議論がある。しかし、内生化とは公害の発生責任が明確な範囲を同定(政策的に)して法令等に取り込めば良いだけのことだから、例えば、自動車事故を起こしたら即、免停で一生自動車を運転できないとか、事故が多い道路は封鎖するとか、自動車を保有しない法律をつくるなどなんでもある。
しかし、経済学者でなくても分かるのだろうが、研究対象である現実経済を支えているのは、物の交易であるのだから、現実に自動車運用を停めることはできない。経済の停止、生活の質の低下、生命の停止までを意味する。そうすると、「しかたなく皆でしのぎながらやっている」状況を取り出して、外部不経済とか社会的費用とか言っても天に唾をするようなもの。経済学者なら、どのように内生化するのが、現実経済への悪影響を抑えられるかを考え提案するべき。門外漢はこまる。せめて自動車の幅を縮めろとの発想はでてこないだろうか。
2009年8月7日金曜日
社会主義の劣位性 080828
貧しき人々、地下室の手記、怒りの葡萄を続けて読んで想記したのだが、前者ロシアの作品と後者アメリカの作品の大きな違いは、個人が社会システムに参加する余地があるか否かの違いにあると感じた。すなわち、社会主義には社会システムを壊す自由が全くないのだ。
自由主義には貧富の差が生じ、貧しい人々は資本主義に押しつぶされ、生活の自由が剥奪されているように写る。しかし、努力やチャンスにより生活レベルを向上させることは全く不可能ではない。かたや社会主義はまるでカースト制度のように個人を峻別する。帝政ロシアの時代はその後のソ連の社会主義とは異なるのだが、この時代にすでに萌芽がみられる。ロシア人(ナロード)の絶望的な叫びは、自己の力ではどうにもし難い、社会システムの堅牢さによる。
片や、初期のアメリカの貧困には、資本主義の大波に飲み込まれ、行き先を閉ざされながらも一縷の望みが失せない人々がそこにいる。また、今時のオバマ旋風のように、社会階層であった黒人階層からも大統領が生まれる希望が残されている。
ロシアにおける見えない手の恐怖とやるせなさ、失望は、結局人間をだめにする。かつて中世以前の人間は、進歩の概念なく人生を生きたといわれるが、まさにそのようなものだ。
神を失った以降の、ものを考える人類は、嘘でもいいから明日は今日より進歩していたいと切望する。近日考察した、N+1が無い人間社会は、必ず疲弊し、人から希望を奪いさるものとなろう。
よって、かつてから薄々感じていたことだが、社会主義は個人の創意や工夫を一切評価しない社会システムであったからこそ崩壊したのだとのことを、別な確度から補強するものである。
ロシア人とは、もしアメリカのように自由主義にすると、多分、とんでもないことをやらかす人民なのだろう。だから、社会主義の名をかりて、人民が人民自らルールを敷いたのであろう。そう考える方が、合点がいく。
以上
自由主義には貧富の差が生じ、貧しい人々は資本主義に押しつぶされ、生活の自由が剥奪されているように写る。しかし、努力やチャンスにより生活レベルを向上させることは全く不可能ではない。かたや社会主義はまるでカースト制度のように個人を峻別する。帝政ロシアの時代はその後のソ連の社会主義とは異なるのだが、この時代にすでに萌芽がみられる。ロシア人(ナロード)の絶望的な叫びは、自己の力ではどうにもし難い、社会システムの堅牢さによる。
片や、初期のアメリカの貧困には、資本主義の大波に飲み込まれ、行き先を閉ざされながらも一縷の望みが失せない人々がそこにいる。また、今時のオバマ旋風のように、社会階層であった黒人階層からも大統領が生まれる希望が残されている。
ロシアにおける見えない手の恐怖とやるせなさ、失望は、結局人間をだめにする。かつて中世以前の人間は、進歩の概念なく人生を生きたといわれるが、まさにそのようなものだ。
神を失った以降の、ものを考える人類は、嘘でもいいから明日は今日より進歩していたいと切望する。近日考察した、N+1が無い人間社会は、必ず疲弊し、人から希望を奪いさるものとなろう。
よって、かつてから薄々感じていたことだが、社会主義は個人の創意や工夫を一切評価しない社会システムであったからこそ崩壊したのだとのことを、別な確度から補強するものである。
ロシア人とは、もしアメリカのように自由主義にすると、多分、とんでもないことをやらかす人民なのだろう。だから、社会主義の名をかりて、人民が人民自らルールを敷いたのであろう。そう考える方が、合点がいく。
以上
経済学考3 081002
宇沢氏の論文に触発。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしている。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因をtの関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者である。人の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学はなにもなし得ないとの烙印を押されるだけだ。それなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本といい、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないというのはまたさき以外の何者でもない。
前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者と後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分に対するフィードバックが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある期で上記の前者であったものが、やがて後者になるが、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要なのに無いものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えよう。
まだまだだな、経済学は。結局、データがとれないので屁理屈で終わっているのだろ。統計と一体化したSNAのようなシステムでないと、経済学の発達はこれ以上見込めない。
大体、学問の前提を語ると笑われるといったフリーメイソン的なムードが既におかしい。隠していると何も生まれないよ。
氏曰く、経済政策において重要なことは、所得の再配分だという。それを新古典派経済学でなし得るにはどうするかと検討をしている。
最低所得を定めておいても、経済は常に変動しているので均衡が直ぐに破れるから意味がないという。つまり、新古典派経済学の均衡とは静学的均衡のようだ。
動学的に対応すれば良いだけのことではないか。自己規制する必要な何もない。新古典派経済学の均衡状態が時間との関係でどうなのかを議論できていないのが原因だ。仮にある瞬間の様子というのなら、外生要因をtの関数にすれば、どんどん静学的均衡状態を示せるので、結果として動学的となる。仮に、それだと次はどうなるのか分からないから政策が打てないというのなら、それは詭弁である。経済は時々刻々と変化するのだから、修正をしていけばいいだけ。むしろ、ある均衡点に向けた政策を打って、腕組みをして待っているという態度の方がおかしい。
生産手段の私有制が前提だという。それにより富の配分が決まるという。富めない者は生産手段を多く持たないので、当然のことながら、このシステムではどうあがいても所得の再配分は是正できない。現実的に考えると、富めない者に生産手段を外的に持たせるか、富める者からかき集めて富めない者へ配分する方法しかない。前者も後者も原資は富める者からの徴収なので、結果として政府が集金と配分をせざるをえない。宇沢氏は、このシステムだとフリーライドが生じて、結果として消費パターンなどが変わってくるので、ふさわしくないという。どの世界にもウルトラCはないので、宇沢氏も無理筋を言っているだけだと思われる。書物の後段に解らしきものがあるかもしれないが。
一口に言うと、宇沢氏は空想主義者であり、非現実論者である。人の世界ができないことや科学的な因果関係を持たない価値観を一生懸命力説しても、結果として経済学はなにもなし得ないとの烙印を押されるだけだ。それなら哲学や思想がやればいいことである。
経済学はやはり現実社会の経済政策を方向付けなければいけない。
どんな理論を主張したところで、それは具体の計数で示されなければ利用価値がないので、全ての人が生活に困らない所得の再配分を実現することが社会の基本といい、その反面でフリーライドを許す経済システムはいけないというのはまたさき以外の何者でもない。
前者は外形としてという程度に止める必要がある。前者と後者は無縁ではない。密接に関連している。前者に人間愛や憐憫の情をもって与えた最低所得が、実は労働したくない者のフリーライドであったなどということは日常茶飯事である。いや、前者の個人と後者の個人は異なる主体だと力説しても、モラルハザードによって、前者で救われた者が後者に成り代わるのは時間の問題であろう。
つまびらかにみると、何らかの事情で労働意欲をなくした者が、前者になり、時間の経過を経ても、労働意欲を回復せず、後者に位置づけられるというのは、人間の心情や置かれた社会的立場からするとなんら不整合は無い。むしろ人間社会の歴史はその繰り返しである。そうした人間の特性を無視して制度設計をしても意味がない。この問題の回避には、所得の再配分に対するフィードバックが必須と言うことである。つまり、評価とペナルティーが必要なのである。これが備わっていると、ある期で上記の前者であったものが、やがて後者になるが、評価によりペナルティーを受け、アウトサイダーになり、また、前者に戻ってくるという動学性が表現できる。
この評価とペナルティーを理論に組み込まないと、正しい均衡状態は表現できない。財消費や財需要など、およそ市場をコントロールしている多くのものにはルールが必要であり、現実社会でも一定程度備わっている。むしろ必要なのに無いものが経済的に問題になっているのが現実である。つまり新古典派経済学の市場とはいわゆるただしく経済取引をしたケースだけを語っているのであって、イリガルなものも一緒くたにしていることが問題である。それでは実体経済の上っ面しか見ていないことになる。アンダーグラウンドな経済も取り入れてこそ、より正確な経済モデルと言えよう。
まだまだだな、経済学は。結局、データがとれないので屁理屈で終わっているのだろ。統計と一体化したSNAのようなシステムでないと、経済学の発達はこれ以上見込めない。
大体、学問の前提を語ると笑われるといったフリーメイソン的なムードが既におかしい。隠していると何も生まれないよ。
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