2020年1月13日月曜日

裁判員の迷いに思う

裁判員制度の運用第一号が8月4日から始まった。日本でも、1928年から1943年まで陪審員制度が運用されていたそうだから、この種の制度運用は史上初ではない。しかし陪審制度が運用されていたわが国の社会状況、国民心理は、現在とは大いに異なっていると思う。そうした点では、本格的な民主主義社会史上では初体験であろう。
裁判員制度が今年5月にスタートするまでに、新聞では国民の偽らざる心境を紹介していた。それらに共通することは、自分に人を裁く権利があるのか、どういう量刑が妥当なのか分からないといった不安が示されていたことである。私はこうした世の人の考えに違和感を覚える。一国民の立場では、人を裁く権利は無いであろうし、素人では量刑の目安など分かろうはずがない。制度の元になる法律で求めているのは、国民に人を裁く権利ではなく「義務」を与えたことである。司法は国の重要な柱となる制度として、これまで専門教育を修めた者だけに付託してきたが、その専門的判断に国民が疑問を投げかけたことなどもきっかけとして、この度の裁判員制度が生まれた。本来は、国民が国民を裁くのは何ら不合理性が無い。民主主義の代表格である米国などでは積極的にそのように運用している。平均的な日本人が感じる、罪を犯した人を裁くなど私にはできない、と言う感覚は、家の中はきれいにしているが公共空間には平気でゴミを捨てる感覚にも似ている。単純化すると、社会は複数の人から成り立っていて、そこに不穏分子が出現すれば、社会の安寧のために皆でその不穏分子の処遇を決めなければならないというのは極めて明白なことであろう。裁判員への不安を口にする人は、不穏分子の処遇は社会の構成員の私でなくて、他の人がやってくれればよい、ということと同義だ。処遇の具体的な運用策は様々な形があろうが、原理原則は単純化したようなものと考えられる。その意識を根底に持っている必要があるし、そうして初めて罪を犯した人からも罪を犯された被害者からも逃げることなく正しい判断ができよう。さらに、日々、社会における正しい(平和を乱さない)行為とは何であるかを考察する習慣がつき、犯罪の少ない社会をつくりあげることに寄与できるというものだ。極めて国民皆の利益の向上にかなっている。
4日と5日の新聞記事には、裁判員を経験した人の意見があった。そこには、加害者を実際に見た最初の印象と状況証拠の陳述を聞くうちに加害者に対する印象が異なってきたが、印象(心証)がこんなに変わって良いものだろうか、ということを述べている。これらは正に裁判とはこのようなものというのを肌身で感じているので、よいことだと思った。これこそ弁護士の腕の見せ所であり、反対尋問などにより、双方自己正当性正を主張しあい、相手の非を攻撃することを見聞きしながら判決に向けた心証を形成していけばよい。しかし、私が現在の法制度の運用に疑問をもつのは、例えば今回の事件では、「殺意のあるやなしや」が大いなる論点と言われることについてである。
人が殺されるまでには様々な理由や偶然や意志があることは論をまたない。それは過程である。一方、生きていた人が命を奪われる事実としての結果が厳然としてある。その命が奪われることへの正当性?を今の法制度では裏付けようとしているように強く感じる。どのような理由や過程があろうとも、何事もなければ生きながらえた命を偶然であろうと故意であろうと殺めてしまった事実については、その引き金をひいた人を裁かない訳にはいかない。偶然であるので、その人には責任がないので、裁くことができない、という法制度にこそひずみがある。法制度は解釈の体系であるので、現時点ではたまたまそうした解釈をする人知が無いだけであるというのが正しい理解だろう。しかし、人は法解釈で示される判決文を遙かに超えた判断を瞬時にできる能力を持つ。故に、そうした判決には大いに違和感をもつ。どのような理由があろうとも人間一人を殺めたその人に罰を与えることに、人は違和感を覚えない。これこそが最も合理的な判断であろう。法が社会の安寧を図るためにあるなら、こうした運用こそが正しいと言えよう。日本の裁判が加害者の庇護に強く、被害者の保護に弱いのは、社会正義が図られていないことの証左である。それを是正しようとして裁判員制度が生まれたのだが、従来の間違った法技術をそのまま運用するのなら、正しい裁きは望み得ない。
最も基本となる思想は、命は命でしか贖えないとことである。命は最低限等価性が成り立つ。高名な大臣が名もない若者に殺害されても、両者は命の重みが同一であると言う点で平等である。その貴い命が殺められたのにもかかわらず、死刑や無期懲役が言及さえもされない判決もある。何故そうなるのか。それはこうした基本思想が法制度の底流にないことによる。日本の法制度がどのような明快な思想で構成されているかを端的に言える人はいないし、書籍も無い。こうした制度では多義解釈が起こるのが明白であり、裁判官によっても正反対の判決がままあるので、勢い判例に解答を求める。しかし、そんなことを繰り返していては国民経済に悪影響があるだけでなく、国民の正義感にも大いに悪い影響を与えるので、最終判断をする仕組みが要る。それが最高裁判決だ。最高裁判決が真理であり、地方裁判決が誤謬であるはずはないが、どこかで「決着」をつける必要のために最高裁がある。
命の等価性の観点に加え、憲法が保障する思想・表現の自由も考え合わせる必要がある。巷にはかなり危険な思想や表現があふれているが、民主主義社会を育むためには思想や表現には公共の福祉の限度を超えない範囲で自由を保障している。だから、私を含む国民は、頭の中ではどんなことでも考えられるし、ウェブなどにも公共の福祉の限度内では自由に表現ができる。「殺意」を抱いたかどうかが争点である、といったことは、こうしたわが国の憲法の観点から見ても、それを争点にするには不整合がある。殺意などは当然持っていると考えても良く、また加害者が殺意を否認したら、それも正しいということになる。殺意があろうとなかろうと、刃物で刺したら死んでしまったのなら、殺した事実があるので、それを問うことであろう。勿論、たまたま草刈りにでも使おうとして持っていた鎌に隣人があたってどこかが切れて死んでしまったのなら、情状酌量の余地はあろう。しかし、今回の事件のように刃物をもって往来を歩く行為自体が不法であるのだから、殺意を持とうが持つまいがそこを論点にすること自体が法側を迷宮に入らせしむる理論と考えられる。裁判員制度が今後しばらく運用される中で、国民が今の法制度の欠陥に気づき、法担当者が真剣に議論し改善するなら、わが国には未来があるような気がする。私も裁判員となる日を心待ちにしたい。

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