2016年7月9日土曜日

少しだけ見えてきた人間という生き物 ―欧州の足跡に見た―

 多分に性格的なものだと思うが、子供の頃から「疎外」という概念に興味があり、それを感じる自己の心理と、同時に感じさせしめる他者の心理に近づいて見たいと思い始めたのが18歳の頃だった。強く意識するきっかけは、ドストエフスキーの地下室の手記をはじめ、大学生になって手にした「夜と霧」であろうことは間違いない。ドストエフスキーからは、疎外はロシアの社会構造が生み出すものだということを感得し、夜と霧からはドイツ人の恣意的な意志がなし得たことだと理解するに至った。その後、ドストエフスキーの作品はほとんど読み、そこに通底するのは、「スラブ」というアジアともいわゆるヨーロッパとも異なるロシアに重く横たわっている民族の歴史あり、自らのルーツと信じるヨーロッパとの和合を身を引き裂かんばかりに渇望し、ロシア人こそがヨーロッパを始め世界を統一化しうる民族だとの主張で終わっていることだ。つまり、ロシアはヨーロッパから出ているが、ヨーロッパに疎外されたことが不幸の始まりであり、ヨーロッパに戻るための資質は十分に備わっていから、温かく受け入れて欲しい、それによりロシア人は本当の親と信じるヨーロッパを救いうるのだと主張しているのだ。それは現在のロシアも同じ意識にあるように感じる。
キエフ・ルーシから始まったロシア(「ルーシの国」を意味)は、大雑把にいえば、一度はヨーロッパ人の国として発生したが「タタールの軛」により約240年もの間支配された後、1480年にモスクワ公国のイヴァン3世(ツアーリ)がこの軛から漸く解き放ち、まがりなりにもアジアではない国家として生まれ変わるスタートを創りだしたに見えた。だが、かつてはヨーロッパ人に先祖をもつロシア人も長いモンゴル人の軛にあって、徐々にアジア的なもの考え方を身につけたようだ。その表れが9世紀から19世紀まで約1000年間にわたった農奴制の温存である。この農奴制により、同じ民族であってさえも、人には「格」が備わっており、上の格の人間は下に位置する格の人間を家畜同然に扱ってよいという思考を遺伝子に組み込ませてしまったのかも知れない。これが、西欧をルーツとしながらも西欧とは異なるロシアという国の大いなる特徴であり、その後に人類の歴史に惹き起こした悲劇の原因と言えるかも知れない。ドストエフスキーを始めとして作家がロシア文学に登場させたロシア人は、精神的に極めて倒錯した人間像として描かれている。だが、これらのロシア人は決して創作物ではない。現実のロシア人の中にこそあり、一個のロシア人のなかに多層な人格として現れるのである。ドストエフスキーの登場人物を描写すると、精神分裂病としか思えない人物像として多く描かれているように思える。しかし、彼らは決して誇張されて描写されたのではなく、彼らはロシアの歴史によって創りだされた人物像がそのまま描かれたのであろう。例えていえば、聖人と残酷な殺戮を無慈悲に行い得る人格が一人のロシア人に内在するということである。いわばジキルとハイド氏である。では、何故ロシア人はこうした支離滅裂ともいえる人格者となり得たのか。それこそが疎外というテーマに通じると感じたのであった。
 一つの仮定だが、欧州の縁辺部に降り立った人々はその発祥の当初から強い「劣等感」を抱いてきたのではないか。人類全般に対してではなく、発祥の地である西欧に対してである。ここでは劣等感を疎外感と読み替えてみた。なぜ自分たちは他の欧州主要国のように近代化が果たせないのか。我々ももとは欧州にルーツがある民族ではないか。人は請い求める対象から何らかの形で受容され得ないとき、時として対象へ劣等感を抱き、そしてその劣等感は拒絶する対象に様々な反応を示す。対象に取り入ろうとして自己の優秀性をアピールし、媚び、脅し、無視したりとありとあらゆる媚態に通じる態度を表明する。人間同士の場合は、激高して対象を亡き者にしてしまったり、二度と視界に入らないように自ら永遠にその場を立ち去ることもできる。しかし、国同士の場合は、その地政学的関係性が不変であり、この相対的関係が変わらないかぎりいつまでも劣等感を抱き続けることになる。今日においても、かの地は相変わらず西欧の歓心を買おうとし続けているように見える。劣等感を抱く国は、人間のアナロジーで想定すると強い自己正当化を主張する傾向がある。その心理は、ありのままの自国(西欧ではもっぱら田舎臭い国)のイメージを受け入れたくない、認めたくないというものだろう。マルクス主義により国を変えたいが、その当時は自国は改革以前の遅れた国であり、改革の前さばきとしてまずその田舎臭い社会=農民や自己改革ができない自国民を抹殺したいと希求したのだ。どんなに背伸びしても西欧のようにエレガントになれない、いつも未開の地の人々よろしくドン臭い印象をもつ自国であり続けることに対する苛立ちだったのだろう。実は、中欧のある国もそうであったと思われる。この国は優れた古代人にルーツを発するという科学が高度に発展し始めたその時期に、荒唐無稽な原始的ともいえる演出をするに至ったのもその感情の発露であろう。だが、第二次世界大戦時に主導的であったこの国の指導者は、金髪碧眼の自民族のルーツと思われる人たちを探してこいと命じたが、国内を八方探してみても自国民の中にそれほど見当たらなかったので、多民族から引き立ててきたともといわれる。その国が歴史的な贖罪を背負うと言われる540万人とも言われる数の人々を根絶やしにした根底には、彼らが中欧の自国内でその人たち以上の社会的地位にあったり、金持ちだったことに対するやっかみや劣等感が引き金となったであろうとことは容易に頷ける。中欧の人たちにしてみれば、自らの国を持たないよそ者が自分たちの社会に寄生的に生活し、あたかも自国民と同じように社会的成功を得るさまは、その中欧の人の潔癖的性格にも増して嫌悪感を抱くものだったことも頷ける。亡国の民族が居座っているから、まっとうな自分たちは不遇になると、他者の所為にすることが劣等感をもつ人の特徴でもある。今日、シリアなどからの大量難民を排除したり、自国の黒人やヒスパニックたちを排除しようとするわずかな米国白人ら、そして韓国人にヘイトスピーチを浴びせる僅かな日本人も同じ心理にあるであろう。
劣等感の強い人は、相対的に思考に柔軟性の欠如が見られる側面があると思われる。それは心の弱さとなって現れるが、原因は自己の心の弱さではなく他者の存在の所為であるとする傾向が見られる。このため、劣等感の強い人が積極的に他者を排除しようとするときに往々にして陰湿さや残虐さを伴うのだろう。相手は自分に対して間接的に攻撃していると認識しているから、それを排除するために戦わなければ自分がやられてしまうのだ、正当防衛だと主張がなされる。これ故、前の世界大戦時の二つ国のように、亡国の人々を排除することが社会的に正当な目的となってしまうと、工業化の得意だった人々は、多くの人々を一瞬で抹殺する工場を作り出して膨大な殺戮を機械的に行ったりもした。もし、彼らがあのまま戦争に負けずに亡国の人々を抹殺し続けていたら、次にはその他の諸民族を殲滅し、最終的には欧州の縁辺の国と同様、自国民さえも殺し、最後の最後には軍の内部闘争に至り自己崩壊していたのかもしれない。劣等感を動因とした最終心理形態は、結局、全てのことに満足できない自分を発見し、自己破壊するに至るということかもしれない。
心が強い人は、他者と比べ自己の能力が劣っていよういまいと卑下する度合いは少ないように見える。ある意味で鈍感なのかもしれないが、究極的には「正解」というものが存在しない、あるいは存在させることができない人間社会では、人類の共存という観点からは有用な知恵なのかもしれない。亡国の人、中欧の人、欧州の縁辺の人は、人類の多くがが認めるよう個人としてはとても優れた人材を歴史の中に多く輩出している。特に亡国の人は人類社会の知の発展に大いに貢献しているのは周知の事実である。しかし、そうであっても、彼らをしても、人類社会に平和をもたらすことはできなかったし、これからもできるようには思えない。それは、人間の頭脳で考えて解がでるほど人間社会は容易な複雑さの程度ではないということであろう。ある一人の天才にとっては水も漏らさぬ完璧な世界観を構築できたとしても、現実の人間の社会にはそれに適う個体は限定的にしか存在しない。従って、頭で組み立てたその世界観を現実の人間社会で敷衍しようとすれば、間尺に合わない個体を排除するしかなくなる。それが、縁辺の国や中欧の国やなどの諸国において、知に立ち過ぎ者たちが犯した人類史上の取り返しの付かない大きなミスであった。人間の能力が多様性を持つ以上、常に止揚しながら社会を運営することなくしては、人間社会は成り立っていかない。大量虐殺による特定集団の排除によって、単に不要と思われる集団がいなくなり口が封じられたということにとどまらない。人間は言葉を持つ以上、排除された集団は言葉によって、自らの怨念を社会の歴史に残していく。残された怨念(ルサンチマン)は、世代を継いで語り継がれ、やがて復讐に変わる。その点で、かの国は、各々1000万人以上も抹殺したことにより、数世紀にわたり、抹殺された者たちのルサンチマンから逃れることはできないであろう。
一見、殺した人の数は無関係に思えるが、実は、この数こそがその後のその国の歴史に与える影響の度合いを規定するように思える。大量殺人は、古くから人類の歴史に散見されることであり、今日も起きている。しかし、かの地ほどにはどの国も他民族・自民族を殺してはいない。とくに、中欧の国のようにオートマティックには。
 人間である以上、今後も殺しあいが止むことないであろう。地球が有限性をもち、人が現在のような機構をもつ生物である以上、他者を殺さずに生きていくことは避けられないように思う。もし、避けられる方法が見つかれば、それはそれに越したことはない。しかし、どこから考えを巡らせても、殺し合いは避けられそうにない。身近の家庭、友人、他人から人種に至るまで、都合の悪い他者の排除は人類が滅亡するまで続く。もし続かなくなったら、今の人類ではない別の生命体になる時であろう。モノに絡んで生きていく人類としては、モノの枯渇が不問にならない以上、全ての個人が満足できる日は来ない。モノの枯渇が不問になったとしても、また新たな次の問題を持ち出すのがわれわれ人間という生物の宿命かもしれない。

 欧州の縁辺の国が今後もしばらく病んだ社会であると思われることに言及する。この国が大量殺戮を実施した革命期に成し得た本質的なことは、自国民を含む人々の「希望」や「価値体系」の破壊である。

人という社会的な生き物がまともに生きていこうとするときには、希望や人生の羅針盤となる価値体系が社会に共有されていることが不可欠である。この国の革命では、多くの学者、芸術家、英雄(あの宇宙飛行士も)などが強制収容所に送られ死んでいった。どんな社会であれ、人は他者より優れていたいものだし、そのように努力することが満足感も得られ、生きる希望にもなる。もし、そうではないという社会があれば、およそそこに住む人間という生物は心を病んでまともに生きていけない。できなかったことをできたとき、満足感を人は感じる。他者がそのことを認めれば、励みにもなり、一層努力したくなる。知らなかった知識を吸収できたとき、また、それを確かめられた時に正しく答えられた時に、人は満足を感じる。これらは、人間の社会に共通の価値体系でもある。もちろん、かつてはアフリカなどの原始社会ではそうした価値を認めず、永い古代社会が続いてきたことも事実である。そうだとしても、人は人知れず、蒙が開かれる瞬間にときめきを覚えながら生きてきたのだろう。もしそうでなければ、とうの太古にヒトという種は死滅していただろうし、そもそも種として発生することも無かっただろう。
様々に変化する外界の環境に耐えうるように変革し進化して今日を生きる人類にとって、日々の生活の中で営む進歩性や自己改革性、自己発見性などの価値を根底から否定されたら、人として生きていく上での道標を見失う。まさに彼の地の革命期には、そのことが彼の地に生きていた1000万人以上の人々に降りかかったのである。その記憶は彼の地の人々の遺伝子に深く刻み込まれたであろう。そのことにより、今日の彼の地の人々の社会の価値体系は破壊されたままなのかもしれない。これは数世代にわたり続いていくであろうから、今後も数世紀わたり自己崩壊的な精神をもつ国民として再生産され続けるかもしれない。そうなると、永遠にいわゆる三流国民としてしか位置づけられないであろう。現在の彼の地の社会で多くの自殺者がいることは、まさに価値体系が破壊されていることの証左かもしれない。
さらに彼の地の革命では、学者や社会の上に立つ者や英雄に加え、それとに対置される農民、一般市民が抹殺された。さらには、全ての判断を停止して、人間の自然な心の表出としての愛情を示した人間でも抹殺されている。つまり、生きようとする行為がすべて否定された。結局、普通の社会で卑劣漢とされる者たちだけが生き残った。だから、今の彼の地の人々は卑劣漢を基本モチベーションとして生きている人々とも言えないか。彼の地では彼らが信じた宗教は何らの効果も発揮していない。それどころか、むしろ宗教は大きな裏切りの象徴になったではないか。彼の地を代表する作家の作品に登場する人物が叫ぶように、「神はいない」のである。
宗教も機能し得なかったこの国は、二度と人類社会でまともな人間集団となりえないのか。そうとも言える。人を裏切った人間社会は死んでいった人々のルサンチマンにより、長い年月の中で社会的に平穏な中立的な意識を社会として持つことはできないだろう。
そうした人々は、何が人間社会において絶対に変えてはいけないものなのかをじっくり基本教育からやり直していくしかないだろう。スポーツやバレエや音楽や科学で他国を凌駕する先鋭となることは今の彼の地の人々にとって最優先課題ではないのではないか。それはあいも変わらず西欧を希求することである。真に必要なことは、人間とはどのような生物であり、どうあるべきが人類社会に貢献するのかを徹底して考察し実践していくことではないだろうか。繰り返すが、その考察は、高度な数学や科学、高邁な文学、熱烈な音楽、耽美な芸術、超人的なスポーツなどの追求ではない。いかに優れた人間集団かを世界に証明したりすることではない。人類の仲間として他者の命を奪う危険性の無い社会集団であることを身をもって体現することである。それを実践していくことで、他者からの疎外が緩和するかもしれない。
 脇道にそれるが、もし彼らの方法が正しいというなら、例えば、彼らの国の優秀なIT技術を駆使し、秀逸な人工知能AIを完成させ、そのAIを使って彼の地の人々の価値観を検証してみたらよい。そして、そうした人間集団の生き残る確率を計算してみればよい。明るい未来は算出されないであろう。
 最後に他国の歴史的足跡を省察する日本人としては、一点の曇りもないというつもりかと問われれば、少なくとも私は、とんでもない、穴だらけのザルであると臆面もなく言える。自分のことを棚に上げて他者のことを言うほど、できた人間などいなのである。それが人間というものだから。

                                            完

2010年4月3日土曜日

オウム、赤軍そして足利事件 その共通項 100331

 2010年3月20日に地下鉄サリン事件は15年を迎えたという。事件当時、この事件の裁判は最低10年はかかるとの新聞記事を見て、何故これほどまでに明確な事件が10年もの歳月を要さなければ罪を裁けない国なのだろうと不可思議に思った記憶がある。こうした司法システムを温存させる社会は、やがて社会正義を風化させるのだろうなと暗に感じたものだった。15年後、現実に社会はそうした雰囲気を醸し出している。これはこの国の国民性に基づくものであることは明白だ。
 そうした折、その2日前の3月18日には、朝日新聞に「オウムの組織 強さと弱さが不可分に同居」という論考が新米国安全保障研究所長のリチャード・ダンズィグ氏から寄稿されていた。この論考は、今や世界的な脅威となったイスラムテロに対峙するためには、オウム事件の経験が役立つというものだった。正直な感想だが、一読し、アングロサクソン系のエリートがエレガントに考察したものとの印象を強く持ち、我々アジア農耕民の日本人のテーストには適わない気がした。つまり、我々の心にはストンと落ちない論考だということだ。テロ対策の戦略としてはこうした分析となるのであろうが、実は、オウム事件は日本人のだれもが主人公になり得る事件だという視点が欠落している。
 日本人ではないから分からないのかもしれないので、日本人の視点から少し解題してみたい。
 表題のように、実は、オウム事件はサリン散布や新興宗教という新しい形をとっているが、60年安保運動時代に起きた赤軍の浅間山山荘事件と軌を一にする。オウム事件では、東大生や医者やコンサルタントなどいわゆる社会のエリートが事件を主導しているが、そうした社会クラスの違いが視点や思想の違いをもつという観点が既にアングロサクソン的である。日本人や隣国アジア人、中東のアラブ人などは、社会クラスによる視点の相違はさほど無いと捉える必要がある。異なるのは知識量の違いであるが、メンタルはまったく同じといってよい。メンタルが異なると、アジア・中東の社会では社会生存すら怪しくなるからである。この点は極めて重要なポイントである。キリスト教の伝道が定着しないのもこうしたことに起因する。アジアのメンタルはキリスト教向きでは無いのである。もし、キリスト教の教えを実践していて、何不自由なくアジア社会で生活できるのなら、キリスト教は定着するであろう。
 日本人のメンタルを知りたければ、日本文学を読むことだ。日本の純文学を読むと、日本人の心の内奥や価値観が良く分かる。そこには、アングロサクソンが普通に持つような、正義感や社会使命観などは微塵も無い。だからダンズィグ氏が論考するような、「殺人兵器の使用によって、組織の経験は増強される。・・・中略・・・他人とともに実行すれば、同志愛が築かれる。 これらの特徴は、強い連帯感をも生む。シェークスピアは英国のヘンリー5世が戦闘直前に兵に語りかける場面を描いたとき、兵士たちが「兄弟の絆(きずな)」でつながっていると王に語らせた。 」といった感覚は日本人には無い。だいたい、こんなに格好良く、こんなに建設的な観点は無い。知識人でも。こんなことを日常の会話で持ち出すと、怪訝な顔をされるし、言っている方も赤面する。格好をつけるなと言われる始末。
 ただ、氏が指摘する「連帯関係」は正しい。日本人はこの心理的連帯性に過剰に反応する。というか、人生のほとんど、また、一瞬間一瞬間はこの心理に全幅が占められていると言っても過言ではない。これ故に、日本人の行動はウェットであり、格好が良くない。それは現代においても変わらない。意識が自分中心であり、瞬間の判断が自分と相手の関係でしかないと言える。日本人が犯す犯罪は戦争も含めて陰惨なのは、この自己意識の強さに拠るのであろう。偶さか、自己を超える思想をもった輩が人道愛や博愛精神を発揮するのみである。
 この自己意識の底にある価値観とは何か。これは、「自分だけ」を冠する全ての価値観である。つまり、“自分だけ”「損する、得する、爪弾きにあう等等」。もっと深めて心理学的に言うと、結局、潜在的な「恐怖心」がそうさせるのである。この恐怖心は、歴史的な産物とも言えようが、究極は民族的生得的なものであろう。恐怖心が派生することにより、他人に対して慇懃になりもし、礼などという防衛のための社会形式も生まれる。恐怖心が形を変えると自制の効かない暴力にも形を変える(秋葉原事件など)。人と人は基本的に相手に対し警戒心を常に持っている。恐怖ゆえの警戒心なのである。社会で人々が互いに譲り合うのも恐怖心警戒心の派生行動である。だから、朝青龍のように自由気ままに振舞うことに対して、客観的には作法が云々と論評するが、実のところ、あれだけ自分の都合のよいことをしているにも関わらず社会的に生存していることが許せないというのが偽らざる日本人の心理なのだ。CMで「強けりゃいいってもんじゃない」的なものがあるが、ああ言った感覚だろう。通常の表現では「何様のつもりだ!」ということであり、わきまえろと。つまり、お前ごときに我が物顔をされたくない、俺もしたのに我慢しているのに!!というイメージだ。これも結局、根っこに恐怖心がありその変形価値観であろう。
 加えて日本の小説に見られるように、とにかく理由はどうであれ、日本人は自分が「不完全」であることを強く意識している。門地や学歴に関わらず、不完全である自己への落胆が強い。その反動として、文明開化以降は西洋をモデルとしていわゆる西洋かぶれやブランド物志向、エレガントなものへの憧れなど、なんらの考察も無く無闇に傾倒する。国粋主義や和物重視も実は完全さの象徴となる西洋の反動なのである。
 こうした性向をもつ日本人のマインドコントロールをするのはさほど難しくは無い。誰でも考え付くことだが、頭では無く体で制御することだ。密室や隠れ家しかり、身体的自由を束縛し、恐怖心やその補償としての優しさを与え、その者の不完全さを強調し、ある種の教えを垂れる。まあ、欧米でも手口としては採用しているであろうが、信念の無い日本人は即座にマインドコントロールされる。こうした集団洗脳の中で誰かが循環の輪を断ち切ろうとするだろうと考えるのは、西洋人だけ。不等号が逆向きにならないようにA>Bの状態を恐怖心であおれば、鼠算式に洗脳が循環する。
ここで重要なのは、麻原のようないわゆる狼の存在である。日本人は基本的に羊であるので、どんなに羊の数が多くても、一匹の悪意を持った狼がいれば、その集団はあっさり操作できる。この状況は現在でも会社組織や学校の集団、地域社会で当たり前に見ることができる。言ってみれば、コルシカ島のマフィアみたいなイメージである。羊は意味も無く平和を求めるので、狼が、お前だけでなく、一族郎党食い殺してやると脅かすだけで、あっさりマインドコントロールできる。昨今流行のオレオレ詐欺も結局は、恐怖心のために支払っているだけである。息子が傍にいるにも関わらず。さらには、あの足利事件の被害者もその典型である。検事の尋問テープが公開されたことは、国民的によいことだと思う。あのテープを聴いて、殆どの人は何も脅かしていないじゃないかと感じたであろう。検事も公務員、テープに録られてまずい言い方をするはずが無い。被害者はこのテープを聴き、多分それ見ろというより、いかに自分が小心者でふがいがなかったかを恥じ、赤っ恥をかかされる思いであっただろう。意地悪な言い方をすると、自分で犯人になっていっただけじゃない。やってないんなら、床に寝転がったり、地団太を踏んだりして否定すべきじゃないか。と、いう見方もあろう。しかし、多くの日本人は彼の心境は痛いほど分かるのだ。ここで否定しても、ずっといつまでもかつ四六時中付きまとわれたらノイローゼになってしまう。正義はどこかにあるのだろうから、ここは適当に切り抜けようと。こうした目に見えない恐怖心が彼に虚偽の自白までさせてしまったのだ。
 恐怖の関係は好悪の関係に置き換えられるので、羊は自分はあなたに対して危害を加える者では無いよとの愛想を振りまくことで狼に取り入る。公衆の場では、わたしはあなたに危害を加えるとか加えられるとかの関係にありません。そもそもあなたとは関係が無いんです。と主張するために、能面になる。日本人が満員電車で能面になるのは、相手への感情を隠すためである。しかし、一度感情の発露を見せると、とんでもない惨事が起き得る。欧米社会でも人種や思想の違いによる軋轢緩和のために、もう少し積極的に挨拶や笑顔でのジェスチャーをしている。日本社会も外国市民が多くなれば、能面だけでは済まされず、そうせざるを得なくなる日も来るだろう。
 さて、こうした日本人が、マインドコントロールから解かれた場合どうなるか。実はマインドコントロールとは耳障りがいいが、マインドなんてコントロールされてはいないのだ。ただ、恐怖心がそうさせているだけなので、オウムの場合は麻原が逮捕され、自分を監視するものが逮捕されれば、周りをきょろきょろと見回して安心となれば、普通の羊にもどるだけだ。実際、オウムの幹部連中も何でこんなことをしたんだと尋問されても、さしたる思想など無いのだから語る訳は無い。麻原の下らない思想に感化されない程度の知力は持ち合わせているであろうから。ただ彼らの場合は恐怖心もあったが、もっと悪いことには悪乗りをしたのである。つまり、麻原の下らない思想に感化されたフリをして、自分の持つプロフェッションを最大限に発揮したのだ。現実の世界では大変な知的努力をしないと自己の専門性で評価されることは難しいが、オウムという集団では手と足は一般信者が担うので、自分は頭を使えばいいだけ。それも荒唐無稽なことに対して。これは、実は、浅間山の赤軍、さらには第二次世界大戦の日本の軍と国民の関係そのものである。戦犯もそうであったが、オウムの幹部もさしたる思想など述べなかった。そもそもそのような思想は持ち合わせていないからだ。思想家で危険な人物は三島由紀夫ぐらいだろう。
第二次世界大戦後も国民は戦争責任は軍にあるとし、自分たちは騙されたといっていたようだ。しかし、ある作家によると、こうした悲惨な戦争に突入したのも、国民自らに物事を適切に判断する能力が欠如していたからであり、軍も国民も重過失であるという。さすがにわが国の国民と雖も物事の判断能力程度はもっていただろうから、やはりいわれの無い生得的な恐怖心が集団行動に走ったと言えるだろう。よく、ものの本に、終戦直前まで鬼畜米英などといっていたお偉方が、玉音放送後にはアメリカ万歳!と叫び、自分たちは間違っていたという始末で、そんな大人を信じてきた子供たちは人間不信に陥ったと書かれている。ことほど左様に、わが国の人々は、マインドコントロールなどという高級なものにはかからず、単に自分と家族の身の安全のために嘘や同調を繰り返しているに過ぎないのだ。これについては日本人は正面から認めないが、誰も否定はしない事実である。
 もし、本当に日本人のことを知りたかったら、日本人とともに行動しながら、今なんでこんな判断をしたの?と聞きながらやれば、すぐに日本人の価値観の全貌は見えてくるだろう。そこで得られる情報は、頭で行動している欧米人には戸惑うことばかりかもしれない。なんとなく、とか、特に理由はありません、とか、流れで、とか、周りの雰囲気で、とか、これが好きなので、といった理由ともならない理由が発せられるであろう。
 こうした民族であるから、オウム事件が特殊な例だなどと判断していると、やがて、また、前の大戦のようなことをみすみすやらせてしまうことにもなる。このような民族を押し止めるには、もちろん宗教もいいのだが、かたまりを切り崩すことであろう。日本人は羊なのでなかなか兆候をだしにくく、いつの時点で悪に染まっているか分かりにくいが、そもそもが悪意が無いので、日常の行動を見ているだけで大体見当が付く。それは家庭でも職場でも同じである。ジョージ・オーウェルの「1984年」ではないが、監視することが手っ取り早い。日本人は極端にプライバシー侵害を嫌うが、とにかくオフィシャル=よそ行きモードでいるのが煩わしいので、くだけた調子になりたがるほか、例の恐怖心から他人から覗かれるのが身の毛がよだつほどに気味が悪いのである。なので、監視してもたいしたことはしていないだろうが、そもそもがコソコソした行動パターンだから、監視していないと悪に染まるタイミングがどこなのかも分からない。メールなどを監視するより、行動を監視すれば殆ど把握できるだろう。
ただ重要なのは、監視して注意すればそれで済むのではなく、身の安全を保障することである。恐怖心ゆえの行動であるから、恐怖心を取り除くことによってのみ、その行動を止めさせることできる。
 日本人が恐怖心を内在させ、それが原因となって説明できることが他にもある。例えば、多額の貯蓄や土地への異常な執着、金への異常な執着がある。年金などの公的なものさえ信用できないのである。またこれを裏付けるかのように社会保険庁のルーズな対応が明らかになるものである。このルーズさえも実は、原因たるや社会保険庁内の職員の恐怖心から生まれたものであることが報道で分かろう。 
 米国がオウム事件から何かを引き出そうとの着想は良いことだと思う。しかし、事件の犯人と何度接見してみても、とるべき戦略に繋がるものは見出せないだろう。それは、アングロサクソンの思考パターンになじみにくいからである。しかし、中東のテロは米国だけでなく世界にとっても脅威なので、是非、似た思考をする日本人を米日合同の対策班員として育て上げ、テロ組織を瓦解してほしいものだ。期待したい。口が堅いのも日本人の特徴だし、特攻は日本人の十八番。恐怖への補償と大儀を与えれば、米国人以上の仕事をするであろう。

2009年11月20日金曜日

オリンピック招致へのこだわり 2009年11月20日

10年以上も先の2020年開催予定のオリンピック開催候補都市にはやばやと名乗りを上げる都市がでてきた。今度は先ごろ落選した東京都だけではなく、広島・長崎も新たに加わるという。今後はさらに増えるかもしれない。何故、これだけオリンピック招致にこだわるのだろう。率直に疑問である。
もちろん、いくつかのまことしやかな理由は誰しも1つや2つは掲げることはできよう。しかし、いつもこうした宣言に対して違和感を覚えるのは、そこに何らの必然性が感じられないことだ。広島・長崎はオリンピックをとおして「世界平和」を訴えるのだと言う。で、何故オリンピックで平和、とくに核に絡む平和への訴求なのだろう。オリンピックはこれまでもスポーツをとおして政治・思想を超えて競おうとの精神で進められてきた。もちろんその精神を完全に体現しきっていないのは、モスクワオリンピックへの不参加などにも表れているが。
広島・長崎に限らず、東京都にもつうじるが、敢えてその主張をスポーツの祭典であるオリンピックに絡ませようというセンスが理解しがたい。オリンピックには、明らかに都市の整備促進とある意味で近代文明促進化効果がある。日本も東京オリンピックを契機に、また札幌冬季オリンピックを契機に都市基盤が高度に整備され、近代化を図ることができた。北京もそうだし、2016年開催予定のブラジルも現在の経済基盤をより堅固なものにしつつ、先進国家への参加のための基盤づくりを果すことであろう。
世界を見渡すと、オリンピック招致をきっかけとして経済・文化の高度化を果したい諸国がまだまだたくさんある。鎖国・敗戦から世界経済を牽引するまでになった日本が、再びオリンピックを開催することで、そうした世界の国々の近代化のチャンスを10年近く奪うことになる。そうした配慮が今回の東京都の開催国招致宣言の中にあっただろうか。敗因はもっぱら、投票権を持つ国をうまく取り込めなかった下手さにあるような言い方もあるが、他国はそのようには見ていないだろう。何故、日本だけが財力にあかせて、二度もわれわれのチャンスを奪うのか、という浅ましさへの嘲りもあるであろう。
金を掛けないオリンピックを実現し、東京の環境を改善するのだ。こんな主張がオリンピックの精神のどこと触れあっているのか。かつて開催したときに整備した施設を活用し、オリンピック招致をきっかけに世論を動かし、新しい都市整備を進め、弱体化しつつある日本の経済的牽引車である東京を強化したい。言っているのはそういうことなのだ。いわば独りよがりと言えよう。では北京オリンピックはそうではないのか。そうではない。国体は社会主義で経済は資本主義の中国がオリンピックを開催することにより、好むと好まざるとを問わず、着実に欧化することになる。それが結果として、または、図らずも民主化に転べば、世界的な平和の駒がまた一つ増えるわけだから、グローバルな世界となった今、平和プロセスの形成の面からも世界が期待するところであろう。旧ソ連がペレストロイカなどにより弱体化した国体を立て直そうとした政策が、幸か不幸か社会主義を崩壊させた。中国も12億人に国民を食べさせるためには、必然的に資本主義の導入が必要と理解して市場開放・市場参加を進めている。しかし、一部の上層部を除いては、資本主義に内在するメカニズムにより民主化の方向に転がっていくことまでは理解が行き届いていないであろう。いずれにしても、オリンピックにはこうした効果が期待されているのであって、日本の経済再生や世界平和訴求のために役立てようというものではない。今回、オリンピック招致国の闘いに敗れた原因を識者の意見にみると、オリンピックの本来の意義に照らして論ずるものは少ない。ところで、オバマ米大統領がシカゴに対する応援が形だけに終わったことに大統領の力のなさを言う意見も見られるが、かの戦略王国米国だからこそよくわきまえた行動だと思った。
では、広島・長崎は核のない世界平和を訴求できないのか。また、東京都は環境により都市づくりを世界にアピールできないのか。そうではない。オリンピックではなくとも、世界の諸国を東京などに招待し、東京発の世界大会を仕組めばよいではないか。数百億円もかける余力があるのなら。そうしたことを自力でできたときに、世界の賞賛を得られるのではないか。