2009年8月5日水曜日

裁判員の迷いに思う

裁判員制度の運用第一号が8月4日から始まった。日本でも、1928年から1943年まで陪審員制度が運用されていたそうだから、この種の制度運用は史上初ではない。しかし陪審制度が運用されていたわが国の社会状況、国民心理は、現在とは大いに異なっていると思う。そうした点では、本格的な民主主義社会史上では初体験であろう。
裁判員制度が今年5月にスタートするまでに、新聞では国民の偽らざる心境を紹介していた。それらに共通することは、自分に人を裁く権利があるのか、どういう量刑が妥当なのか分からないといった不安が示されていたことである。私はこうした世の人の考えに違和感を覚える。一国民の立場では、人を裁く権利は無いであろうし、素人では量刑の目安など分かろうはずがない。制度の元になる法律で求めているのは、国民に人を裁く権利ではなく「義務」を与えたことである。司法は国の重要な柱となる制度として、これまで専門教育を修めた者だけに付託してきたが、その専門的判断に国民が疑問を投げかけたことなどもきっかけとして、この度の裁判員制度が生まれた。本来は、国民が国民を裁くのは何ら不合理性が無い。民主主義の代表格である米国などでは積極的にそのように運用している。平均的な日本人が感じる、罪を犯した人を裁くなど私にはできない、と言う感覚は、家の中はきれいにしているが公共空間には平気でゴミを捨てる感覚にも似ている。単純化すると、社会は複数の人から成り立っていて、そこに不穏分子が出現すれば、社会の安寧のために皆でその不穏分子の処遇を決めなければならないというのは極めて明白なことであろう。裁判員への不安を口にする人は、不穏分子の処遇は社会の構成員の私でなくて、他の人がやってくれればよい、ということと同義だ。処遇の具体的な運用策は様々な形があろうが、原理原則は単純化したようなものと考えられる。その意識を根底に持っている必要があるし、そうして初めて罪を犯した人からも罪を犯された被害者からも逃げることなく正しい判断ができよう。さらに、日々、社会における正しい(平和を乱さない)行為とは何であるかを考察する習慣がつき、犯罪の少ない社会をつくりあげることに寄与できるというものだ。極めて国民皆の利益の向上にかなっている。
4日と5日の新聞記事には、裁判員を経験した人の意見があった。そこには、加害者を実際に見た最初の印象と状況証拠の陳述を聞くうちに加害者に対する印象が異なってきたが、印象(心証)がこんなに変わって良いものだろうか、ということを述べている。これらは正に裁判とはこのようなものというのを肌身で感じているので、よいことだと思った。これこそ弁護士の腕の見せ所であり、反対尋問などにより、双方自己正当性正を主張しあい、相手の非を攻撃することを見聞きしながら判決に向けた心証を形成していけばよい。しかし、私が現在の法制度の運用に疑問をもつのは、例えば今回の事件では、「殺意のあるやなしや」が大いなる論点と言われることについてである。
人が殺されるまでには様々な理由や偶然や意志があることは論をまたない。それは過程である。一方、生きていた人が命を奪われる事実としての結果が厳然としてある。その命が奪われることへの正当性?を今の法制度では裏付けようとしているように強く感じる。どのような理由や過程があろうとも、何事もなければ生きながらえた命を偶然であろうと故意であろうと殺めてしまった事実については、その引き金をひいた人を裁かない訳にはいかない。偶然であるので、その人には責任がないので、裁くことができない、という法制度にこそひずみがある。法制度は解釈の体系であるので、現時点ではたまたまそうした解釈をする人知が無いだけであるというのが正しい理解だろう。しかし、人は法解釈で示される判決文を遙かに超えた判断を瞬時にできる能力を持つ。故に、そうした判決には大いに違和感をもつ。どのような理由があろうとも人間一人を殺めたその人に罰を与えることに、人は違和感を覚えない。これこそが最も合理的な判断であろう。法が社会の安寧を図るためにあるなら、こうした運用こそが正しいと言えよう。日本の裁判が加害者の庇護に強く、被害者の保護に弱いのは、社会正義が図られていないことの証左である。それを是正しようとして裁判員制度が生まれたのだが、従来の間違った法技術をそのまま運用するのなら、正しい裁きは望み得ない。
最も基本となる思想は、命は命でしか贖えないとことである。命は最低限等価性が成り立つ。高名な大臣が名もない若者に殺害されても、両者は命の重みが同一であると言う点で平等である。その貴い命が殺められたのにもかかわらず、死刑や無期懲役が言及さえもされない判決もある。何故そうなるのか。それはこうした基本思想が法制度の底流にないことによる。日本の法制度がどのような明快な思想で構成されているかを端的に言える人はいないし、書籍も無い。こうした制度では多義解釈が起こるのが明白であり、裁判官によっても正反対の判決がままあるので、勢い判例に解答を求める。しかし、そんなことを繰り返していては国民経済に悪影響があるだけでなく、国民の正義感にも大いに悪い影響を与えるので、最終判断をする仕組みが要る。それが最高裁判決だ。最高裁判決が真理であり、地方裁判決が誤謬であるはずはないが、どこかで「決着」をつける必要のために最高裁がある。
命の等価性の観点に加え、憲法が保障する思想・表現の自由も考え合わせる必要がある。巷にはかなり危険な思想や表現があふれているが、民主主義社会を育むためには思想や表現には公共の福祉の限度を超えない範囲で自由を保障している。だから、私を含む国民は、頭の中ではどんなことでも考えられるし、ウェブなどにも公共の福祉の限度内では自由に表現ができる。「殺意」を抱いたかどうかが争点である、といったことは、こうしたわが国の憲法の観点から見ても、それを争点にするには不整合がある。殺意などは当然持っていると考えても良く、また加害者が殺意を否認したら、それも正しいということになる。殺意があろうとなかろうと、刃物で刺したら死んでしまったのなら、殺した事実があるので、それを問うことであろう。勿論、たまたま草刈りにでも使おうとして持っていた鎌に隣人があたってどこかが切れて死んでしまったのなら、情状酌量の余地はあろう。しかし、今回の事件のように刃物をもって往来を歩く行為自体が不法であるのだから、殺意を持とうが持つまいがそこを論点にすること自体が法側を迷宮に入らせしむる理論と考えられる。裁判員制度が今後しばらく運用される中で、国民が今の法制度の欠陥に気づき、法担当者が真剣に議論し改善するなら、わが国には未来があるような気がする。私も裁判員となる日を心待ちにしたい。

2009年7月31日金曜日

未成熟な土建業

これまでわが国の根幹産業であった土建業。経済成長の鈍化により、往事の勢いは無い。もちろん、経済的な理由だけではない。環境重視型の施工が求められ、コスト的に耐えられなくなったこともある。しかし、何よりも問題であるのは、コスト面での透明性・分かりやすさの限りなき低さであろう。
欧米ではコスト面の課題を「マネジメント」によって克服しようと、CM(コンストラクション・マネジメント)などの仕組みを生み出しコスト面の透明化を図っている。では欧米の真似が好きなわが国がなぜ同じ事ができていないのか。それは、土建業がひとえに産業のソフトな部分に未成熟さを内包しているからである。この未成熟さは、日本式の商習慣であるなどとも自他、評することがある。つまり、世界ルールに則れないお金のやりとりがあると言うことだ。これ故にコスト面の透明性は図れないと。
しかし、それは本当だろうか。
一面の真理はあろう。わが国だけに限らず、人の社会は利益を囲い込もうと個人、法人、政府などやっきになっている。アジア社会ではわが国以上に平然と金品の授受が行われている。が、欧米でもそんなに遠くない時代では同じであった。英国では昨今またぞろ議員の私利私欲が高まっているようだ。では何故欧米はそうしたことが時代と共に少なくなってきているのか。経済は結局のところゼロサムゲームであることが欧米人には理解されている。これは彼らがキリスト的平等観をもっていることとつながる。私利私欲で金儲けをしても、結局何らかのかたちで自分も不利益を被ることになることを経験ではなく社会・民族の知恵として知っているからであろう。そうであるなら、むしろ徹底して透明化の中で決められたルールに則って勝負をしたほうが精神的にもよいし、宗教的な価値観にも適う。
しかし、わが国の土建業の未成熟さはこうした社会価値的な側面だけによらない。家を建てた経験がある人なら分かるだろうが、どうしても納得のいかない金額を見積の中に発見するだろう。公共工事や民間土木工事でも同じだ。中途半端にコストの詳細化が進んでいるので、その部分はつまびらかにせざるを得ない。しかし、上述のような商習慣などの要因により総額的に勘定が合わないことを知っているので、それに合わせようとする結果、おかしな数字がでてくる。例えば、「一般管理費」などの費目がとんでも無く高いことがある。この数字について見積者は説明できない。できないが総額でなんとか理解してくださいと言ってしまう。依頼者も総額での要求をしてくる。こうしたことが、結局わが国の土建業のコスト面の透明化を阻害している。では何故適切に表示できないのか。それは、自分たちの仕事の適正な価格・付値をする努力を放棄していることに原因がある。コスト面の透明性が高い自動車産業などと比べるとその違いは歴然としている。
自動車産業界ができて、なぜ土建業界はできないのか。それは事業の要素の多さにも起因しよう。土建施設を構築するまでには自動車を凌駕する検討事項がある。自動車業界は比較的狭い産業構造の中で閉じているので、自動車本体を製造するコストはかなり明確に把握できている。土建業界は単純な労務管理業から、土建業界の商社であるスーパーゼネコンまでと組織形態も多岐に渡るほか、専門業態も職域に対応して存在する。こうした形態が元請け・下請けの構造を複雑にし、商習慣とやらの絡みもあり適切な契約形態を築きにくくしている。さらに、土建業では自然環境との絡みにおいて不確実なリスクが多々存在し、結果として事業リスクとなっている。こうしたリスクヘッジのために、勢い経験則に基づく見積をせざるを得ないという事情もある。
 しかし、これらの事情についての見解は、かなり土建業界寄りであろう。リスクが存在し、その発生が定常的であればコストに見込めばよい。発生が不定期なら、保険商品を開発すればよい。つまり、他の業界がやっているように業界として努力すればできることである。海の向こうの彼の地はそのようにしているのだから。
そうした努力を放棄した結果、いまや土建業界はじり貧の憂き目をみている。適切な利益の基準作りを怠ってきたために、儲けてもそれが過大な儲けかどうかさえ見当がつかないといったことだっただろう。儲けられるときはなりふり構わず儲け、渋られると過小の取り分で堪え忍ぶ。そうした非科学的態度が今の状況を導いてしまった。
 土建業界は今後成熟するのだろうか。それは外圧次第だと思う。現時点でわが国社会が貯め込んでいる社会資産を吐き出させようと外圧が働き始めると、日本独自の商習慣などとは言っていられなくなる。とくに中国がわが国の土建業界に進出する日には、彼らの商習慣で攻めてくるのではなく、世界ルールで攻めてくるだろう。つまり、中国が世界に打って出る日には、彼らは世界ルールに順応した戦い方をすると考えられる。そうした状況になれば、わが国の土建業界も成熟せざるを得なくなる。そんな風に、頼りない自発性の無い変わり方を成熟するとは言わない。島国のガラパゴス土建業界に明日は無いのか。

2009年7月14日火曜日

気づき

人が自覚的に認識することを「気づき」と呼ぶ。認識の対象は何でもいいのだが、自覚があることが重要なポイントである。例えば、ある空間に一人でいるとき、誰かが入ってくれば音や姿や気配で気づく。そんなときには、知り合いであれば顔を上げて、声の一つも掛けるだろう。しかし、初対面であったり嫌いな相手であれば、気づいても気づかないフリをする。ここでは、この状態をテーマとする。
この場合、主体が気づく&客体も気づく、主体が気づかない&客体も気づかない・・と4つの状態がある。険悪な仲であれば、お互ともに気づかれたくないのだが、その保証は無い。しかし、人は希望的に状況を理解する傾向がある。「あの人には気づかれなかった。こっちを見ていなかったから。」または、上記の4つの可能性を楯に、「私はあの人がいることは全く気づかなかった。他に目を奪われていたから。」とも、よく主張する。
まさに可能性だけの問題なので、気づいていたかもしれないしそうでないかも知れない。しかし、通常人は気づいていなかったと主張することの方が多いのではないだろうか。そのことが不誠実さを感得させ社会に不信感を蔓延させているようにも感じる。
いくつかの例を見てみると、例えば電車のシルバーシートに座っている際には、高齢者が目の前にたっても気づいていないように振る舞う。実際には多くの人は気づいている。というのも、シルバーシートに着席する時点で自分が座る資格がなければ、警戒心が働く。警戒心があるにもかかわらず、前に人が立っているかどうかも気づかない人はいない。勿論、泥酔者や爆睡者、無神経者など平均値から大きくずれている人は除いて議論している。
別の例だが、政治家が献金の実態を掌握していない、気づかなかったというのも、実際には気づいているのに不正直な発言をしているだけだ。気づかないとの可能性すらないと言って良いだろう。一般的には、よく、人は多忙なので気づかなかったという言い訳をすることがあるが、物事に気づかないほどに多忙になれば、そもそも仕事などこなせる精神状態にはなくなる。また、気づかないような社員に仕事を依頼するはずがない。政治献金が社会的問題になっているにもかかわらず、そのことに気を向けない政治家がいるはずがない。気が向かなくなったら、政治家家業を続けていくだけの精神状態にはない。政治献金が多いと言っても年間多くたって1000件もあるだろうか。それを職員が処理するとしたら、半分専従になるぐらいの処理量となる。そんなことを毎日やっている職員の報告を聞かないあるいは聞けない政治家などいるはずがない。つまり、政治家が自分に対する政治献金の状況を掌握していないなどということは正に政治家らしいウソである。仮に件数が少なくても、「ウチは献金は大丈夫か」と聞かない政治家はいない。
 このように人は気づかないと言うとき、多くは不正直に言っている経験があるので、他人が気づかないといった際には相手の言をほとんど信用していない。つまり疑っている。この不信感が相互にあるために、社会が殺伐となる。では、その逆の命題として、人が気づいたときに正直に行動するならば、社会が穏やかになるのだろうか。その答えは、そんな社会は無いので正しいとも間違いとも言えないが、人間的な感覚から言えば、答えは否であろう。結局のところは、極端を排して中庸であることが安定的な社会を実現するということになりそうだ。そのためには、人は日頃から数回に1回は正直になることであろう。その日の終わりに、今日は何回正直であったかを懺悔するようになれば、中庸が実現し社会は穏やかになるであろう。