Googleストリートで初めて訪れる地区の街並みを観ようとアクセスした。そこで不思議な光景を目の当たりにした。訪れようとする地番に方向を変えると、急に真っ黒くなるのだ。そうか、これがプライバシー侵害を理由にgoogleに削除を求めた結果なのだと気づいた。結局目的地の様子は分からずじまいだったので、地図を当てになんとか目的地にたどり着いた。用件が済み、帰りがけにプライバシー侵害が心配される建物があるかしばらく見渡してみた。しかし、何の変哲もない日本の街並みであり、人が妬みそうな屋敷があるわけでもなく、拍子抜けした。
国が違うので何ら比較にはならないが、欧州諸国では道路や建物の前面は公共空間と位置づけられているそうだ。そのため自分の家だからといって、条例などで定められている材料や色以外のしつらえで家の顔を飾ることはできないそうだ。勝手にやると条例違反でもあり、撤去ややり直しをさせられるとのこと。かくして、欧州諸国の家並みは統一され、美的である。それを世界各国の人々が観て賞賛する。もちろん日本人も例外なく。しかし、ひとたび日本に帰ると、我が家は自分のものだから、自分が良ければ他人にとやかく言われる筋合いはないと決め込む。ついでにgoogleにも文句を言って、googleストリートから削除してもらう。これで安心。
でも何が安心なのか分からない。隣近所と統一の取れないデザインの家を建て、何に満足しているのか分からない。彼の地のようにみんなが合意できる基準が無いのだから、一人一人が他人に合わせることをためらうのも分からないではない。しかし、その一方で国ではビジットジャパンなどのキャンペーンを張り、諸外国から日本の街並みを見に来て貰うべく美しい景観づくりをしようとの政策を進めているようだ。しかし、このような現状で諸外国の人々が感心し、わざわざ見物に来るような建物や都市景観を造り得るのだろうか?答えは無理。無理だと思うとか考えるではなく、現実的に無理。仮に名前だけの景観法ではなく、景観統一のための強制を伴う法律案を作ったとしても、国民に得心をえて受け容れられることは無い。何故なら、この根本原因はくだんのプライバシー侵害意識にあるから。日本流のプライバシー保護を主張しているうちは、いわゆるme-ismから抜け出すことはない。自分だけが良ければいいという感覚と、自分だけが犠牲的に欲望を抑えても誰も賞賛しないし損をするだけだというさもしい感覚、そんなことをして何の特になるのかという損得勘定、そんなことに効果があることを考えたこともなかったという無知主義。まあ、どれをとっても街並みをユニバーサルな美しさをもったものとしていくことは現在の国民価値、政治体制では無理であろう。江戸期の整然とした町人長屋を良い景観だという人もいるが、欧州をはじめとして整然とした景観は個人が造りだしたものではなく、時の為政者の強制力にほかならない。良くも悪くも民主主義をとっている日本において、また、ますます統一性が希薄となるであろう地方分権制度下においては、街並みは統一感を欠く方向に向かうであろう事が容易に推察される。一つの可能性としては、かくも奇怪な景観は日本にしかないというような、他の国では実現しえない街並みとなることかもしれない。
自国民の総意なら、それでもよいとは思う。しかし、プライバシー侵害意識が合理的な観点から是正されるなら、もっとユニバーサルな国民になり得るとも思う。
2009年7月8日水曜日
2009年6月29日月曜日
日本の政治・行政の問題点
現下、巷には先の見えない失業問題、政治のドタバタ劇、北朝鮮問題等々、枚挙にいとまがない社会問題が山積している。勿論、どこの国だって、五十歩百歩だろうし、なんと言っても社会問題の認識はもっぱら新聞やニュースをとおして、つまり、その国のジャーナリストの処理がほどこされた情報に基づいて形成されるので、ひょっとしたら描かれている報道と実態は異なるのかも知れない。
でも、でも、やっぱり今の日本の対応はかなり問題があると思う。何が問題かといって、知恵がほとんど発揮されていないこと。物事の理解と決断が近視眼的であること。国民性だから仕方がないところだが、昨今ほとほといやになってくる。
失業問題ひとつを取っても、米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況だから、自動車メーカーが人減らしをするのも仕方がないか、的な政治・行政対応しかやっていない。民間企業の質が悪くなっているのは確かだとして、彼らの行ないをただしたり、セーフティネットを張ったりと激変緩和をするのが政治の役割。いまのシステムだと、入力がそのまま出てくるような、全く浅はかな政治・行政システムとなっている。経済成長を支えるには消費税が云々、と言っているが、そもそも金の使い方が分からないのだから、いくら消費税を上げたところで、社会問題が抜本的に解決するはずもない。
政治家・役人は古くから洋行し先進諸国の知恵を吸収し、真似をしてわが国に適用してきた。しかし、それから100年以上たっても、相変わらず米国や欧州の追随をしている現実がある。社会体制の異なる中国ならまだしも、曲がりなりにも資本主義の日本が、自分で考えることもせず、他国のまねごとをしているのが、正に知恵のないところを露呈している。
経済学一つをとってもそうだが、現在の経済学は基本的には「米国の」経済学であり、「日本の」経済学ではない。米国が米国社会や世界向けに、自国が儲かるように工夫した学理であるので、それをそのまま日本にもってきて適合するはずがない。サブプライムローンの発端だって、米国が造り上げた金融工学に多く依っている。米国流の経済学を盲信し、ただただ追随し、日本国内にも大きな経済的痛手を被らせているのが日本の経済学の現状だ。(だからといって、経済学の本質から外れた幸福論てきなまやかしの理論を提唱することを望んでいるのではない)。いまや米国抜きの世界経済の実現は不可能ではあるが、少なくとも国内の経済施策はわが国独自の経済理論で展開するべきだ。米国流の経済学であっても、需要供給曲線などは古典的なアイデアだし、どこの国でも同じだ、と言う見方もあろう。しかし、経済モデルの諸パラメータの操作だけではなじまない経済モデルもあるはずだ。日本の商習慣を冷徹な先端的米国流経済理論に乗らないから、日本社会を変えるべきだと言う主張も、一面正しいが、全てがそうでもあるまい。
かつて、エリートとは、外国語(古くはドイツ語、今英語)に精通していて、外国の書物を訳して国内に刊行できるものを指したようだ。現在も若干はあるだろうが、10数年前までは、外国語の書籍を翻訳すれば大学の教授になれたという。このように、基本が外国を向いている。外国(他人)の構築した理論をトレースすることだけに汲々とせず、何故、日本に軸足を置いて、しっかり自分たちの頭で考えないのだろう。
今の政治や行政の無策を見ていると、利口な人がいろいろと考えているのだろうが、足を引っ張り合っているので、いい案が仲々出てこないのだ、ということだろうと考える人もいよう。しかし、実は、現実はそうではなく、自分たちで考えようとしても、考えられないのだと思う。人のことは言えないが。
テレビや新聞に識者が述べる意見のうち、果たしてどれだけ全体を見渡して、いまや日本はどの道を進むべきかという基本認識をもっている人がいるだろう。(なお、ここでは、政治経済的な思考について言っているのであり、物理化学等々の優れた日本の知恵については対象としていない。)
潜在的な能力のある人は、是非とも日本独自の政治経済思考の質を高め、この難局を乗り越えていく力強い日本に導いていって欲しい。
でも、でも、やっぱり今の日本の対応はかなり問題があると思う。何が問題かといって、知恵がほとんど発揮されていないこと。物事の理解と決断が近視眼的であること。国民性だから仕方がないところだが、昨今ほとほといやになってくる。
失業問題ひとつを取っても、米国のサブプライムローンに端を発した世界同時不況だから、自動車メーカーが人減らしをするのも仕方がないか、的な政治・行政対応しかやっていない。民間企業の質が悪くなっているのは確かだとして、彼らの行ないをただしたり、セーフティネットを張ったりと激変緩和をするのが政治の役割。いまのシステムだと、入力がそのまま出てくるような、全く浅はかな政治・行政システムとなっている。経済成長を支えるには消費税が云々、と言っているが、そもそも金の使い方が分からないのだから、いくら消費税を上げたところで、社会問題が抜本的に解決するはずもない。
政治家・役人は古くから洋行し先進諸国の知恵を吸収し、真似をしてわが国に適用してきた。しかし、それから100年以上たっても、相変わらず米国や欧州の追随をしている現実がある。社会体制の異なる中国ならまだしも、曲がりなりにも資本主義の日本が、自分で考えることもせず、他国のまねごとをしているのが、正に知恵のないところを露呈している。
経済学一つをとってもそうだが、現在の経済学は基本的には「米国の」経済学であり、「日本の」経済学ではない。米国が米国社会や世界向けに、自国が儲かるように工夫した学理であるので、それをそのまま日本にもってきて適合するはずがない。サブプライムローンの発端だって、米国が造り上げた金融工学に多く依っている。米国流の経済学を盲信し、ただただ追随し、日本国内にも大きな経済的痛手を被らせているのが日本の経済学の現状だ。(だからといって、経済学の本質から外れた幸福論てきなまやかしの理論を提唱することを望んでいるのではない)。いまや米国抜きの世界経済の実現は不可能ではあるが、少なくとも国内の経済施策はわが国独自の経済理論で展開するべきだ。米国流の経済学であっても、需要供給曲線などは古典的なアイデアだし、どこの国でも同じだ、と言う見方もあろう。しかし、経済モデルの諸パラメータの操作だけではなじまない経済モデルもあるはずだ。日本の商習慣を冷徹な先端的米国流経済理論に乗らないから、日本社会を変えるべきだと言う主張も、一面正しいが、全てがそうでもあるまい。
かつて、エリートとは、外国語(古くはドイツ語、今英語)に精通していて、外国の書物を訳して国内に刊行できるものを指したようだ。現在も若干はあるだろうが、10数年前までは、外国語の書籍を翻訳すれば大学の教授になれたという。このように、基本が外国を向いている。外国(他人)の構築した理論をトレースすることだけに汲々とせず、何故、日本に軸足を置いて、しっかり自分たちの頭で考えないのだろう。
今の政治や行政の無策を見ていると、利口な人がいろいろと考えているのだろうが、足を引っ張り合っているので、いい案が仲々出てこないのだ、ということだろうと考える人もいよう。しかし、実は、現実はそうではなく、自分たちで考えようとしても、考えられないのだと思う。人のことは言えないが。
テレビや新聞に識者が述べる意見のうち、果たしてどれだけ全体を見渡して、いまや日本はどの道を進むべきかという基本認識をもっている人がいるだろう。(なお、ここでは、政治経済的な思考について言っているのであり、物理化学等々の優れた日本の知恵については対象としていない。)
潜在的な能力のある人は、是非とも日本独自の政治経済思考の質を高め、この難局を乗り越えていく力強い日本に導いていって欲しい。
2009年6月23日火曜日
中心市街地活性化考
中心市街地の活性化が善であるとは、おそらく国民の誰もが否定しないことだろう。
それにも係わらず、中心市街地から人が減り続け、閑散としているのは何故だろう。
活性化が善だと言っている人は中心市街地に自ら出かけているのか?多分そうでは無いだろう。多くの人が中心市街地は活性化するのが良いと思い、ことあるごとに中心市街地に足を運んでいるのなら、人影が少ないはずは無い。
つまり、人々は中心市街地に行かないのだ。ならば、中心市街地の活性化など必要ないのでは?
たぶん必要が無いのだろう。必要が無いにも係わらず、官民そろって声高に活性化を叫んでいるのだろう。カラー舗装や公園、アーケードなどの整備に税金を投じているが、そこには人がいない。
もし、人々が中心市街地などは不要だと明言するのなら、こうした無駄な税金は投入されなくなる。中心市街地に投資する数十億円から数百億円の税金をその町に住む高齢者や失業者に割り当てたら、人々の生活はもう少し楽になるかもしれない。
こうしたことを冷静に受け止められる市民や行政や政治家がいないのは何故だろう。実は多くの人々は気づいているのだ。わが町の中心市街地に税金を投資したところで、日常生活に必要な食料品などが安くなる訳でもない。賑わいといっても、中心市街地だけに雇用の場があるのでもないので、平日は中心市街地の商店やわずかな業務施設に働く人たちが行き交うだけである。休日は、郊外のイオンなどのショッピングモールで家族で楽しく便利に買い物をする。または、ネットでショッピングをしたりこのブログなどを読んでいる。だから、中心市街地には人は集まるはずがない。
よく本末転倒な議論として、郊外にSCが立地するのはけしからんとの主張があるが、その主張をしている当の中心市街地の商店街の店主がSCで楽しんで買い物をしている。多くの市民も、「郊外にSCが乱立するなんてホントに良くないわ」といいながら、競争によって安くなった日常品をありがたく購入している。実は、良くないと言っている当の本人は、何が良くないのか分からないというのが本音だと思う。実際、その人に何故郊外SCの立地が良くないのか、思う理由を聞いてみるがよい。多分、中心市街地の商店街が疲弊するからとステレオタイプな回答をするであろう。でも、私はイオンで間に合ってますから、と付け加えることは忘れないと思うけど。
これからの都市計画は、中心市街地が無くても活性化(従来の意味での活性化ではない)する都市づくりが求められるだろうね。
それにも係わらず、中心市街地から人が減り続け、閑散としているのは何故だろう。
活性化が善だと言っている人は中心市街地に自ら出かけているのか?多分そうでは無いだろう。多くの人が中心市街地は活性化するのが良いと思い、ことあるごとに中心市街地に足を運んでいるのなら、人影が少ないはずは無い。
つまり、人々は中心市街地に行かないのだ。ならば、中心市街地の活性化など必要ないのでは?
たぶん必要が無いのだろう。必要が無いにも係わらず、官民そろって声高に活性化を叫んでいるのだろう。カラー舗装や公園、アーケードなどの整備に税金を投じているが、そこには人がいない。
もし、人々が中心市街地などは不要だと明言するのなら、こうした無駄な税金は投入されなくなる。中心市街地に投資する数十億円から数百億円の税金をその町に住む高齢者や失業者に割り当てたら、人々の生活はもう少し楽になるかもしれない。
こうしたことを冷静に受け止められる市民や行政や政治家がいないのは何故だろう。実は多くの人々は気づいているのだ。わが町の中心市街地に税金を投資したところで、日常生活に必要な食料品などが安くなる訳でもない。賑わいといっても、中心市街地だけに雇用の場があるのでもないので、平日は中心市街地の商店やわずかな業務施設に働く人たちが行き交うだけである。休日は、郊外のイオンなどのショッピングモールで家族で楽しく便利に買い物をする。または、ネットでショッピングをしたりこのブログなどを読んでいる。だから、中心市街地には人は集まるはずがない。
よく本末転倒な議論として、郊外にSCが立地するのはけしからんとの主張があるが、その主張をしている当の中心市街地の商店街の店主がSCで楽しんで買い物をしている。多くの市民も、「郊外にSCが乱立するなんてホントに良くないわ」といいながら、競争によって安くなった日常品をありがたく購入している。実は、良くないと言っている当の本人は、何が良くないのか分からないというのが本音だと思う。実際、その人に何故郊外SCの立地が良くないのか、思う理由を聞いてみるがよい。多分、中心市街地の商店街が疲弊するからとステレオタイプな回答をするであろう。でも、私はイオンで間に合ってますから、と付け加えることは忘れないと思うけど。
これからの都市計画は、中心市街地が無くても活性化(従来の意味での活性化ではない)する都市づくりが求められるだろうね。
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